筑波大学現代視覚文化研究会レビュー班 公式ブログ

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『先輩はおとこのこ』アニメ化&『JKおやじ!』完結記念レビュー再掲!:「”男の娘”と学校と家庭」(Celaborate 47より)

皆様ごきげんよう*1。私は筑波大学現代視覚文化研究会レビュー班のさつき3と申しますわ。

当ブログについて、2021年に「キモオタ」を公開してから約3年以上更新が止まっていました。 実際のところは2023年末あたりには編集権限などの整理が完了し、再度記事を投稿可能な状態になっていたのですが、 肝心の記事を書く余裕が現会員の誰もなかったため、その後もしばらく更新が止まっておりました。 今回の記事を持って、再度のスタートとさせていただければと思います。

さて、話は変わりますが、自分は「男の娘」という存在が好きです*2。 今「男の娘」といえば!そう、 めいぷるちゃん LINEマンガで掲載されていた『先輩はおとこのこ(ぱいのこ)』の花岡まことですね。 『先輩はおとこのこ』のアニメ化が決定し、今年の夏からノイタミナ枠で放映*3すると聞き、テンションが上がっていますが、 実のところやや不安な部分もあります。なぜ不安かというと、「まことの顔が良すぎるから」です。本気で言ってます。 個人的に『ぱいのこ』で起きる事件の大半はまことの顔が良いから起きていて、顔がそんなに良くなければ特に物語にならなかったのではと考えているくらいです*4。果たしてアニメという媒体で表現されることによって、この印象に変化が生まれるか注目したいところです。 (これで視聴後の感想が「声も良い」とかになったらどうしようか)

senpaiha-otokonoko.com

そして賢明な読者の皆さんであれば当然、 『ちゃお』で掲載されていた女装男子?4コママンガである『JKおやじ!』の花野なでしこのことも思い浮かんでいるかと思います。 こちらも2024年5月2日発売の6月号にて約11年の連載に幕を閉じ、完結しましたね。自分は単行本勢なので6月の第5巻発売をしみじみと待機したいかと思います。果たして九郎くんはなでしこちゃんと同じ籍に入ることはできるのか(もうしてます)!注目しています。

shogakukan-comic.jp

そんなタイムリーな「男の娘」情勢について、自分は奇しくも2022年の12月、本会の会誌である「Celaborate 47」においてこの2作品を「学校制度」や「家族」を中心に比較した*5レビューを執筆しておりましたので、そちらについて以下に再掲したいと思います。

誤字脱字を除いて基本的に掲載当時の内容をそのまま再掲しておりますので、『ぱいのこ』は5巻掲載分以降についてはLINEマンガの方を参照していて、当時はアニメ版のまことの声優が男性だと判明していなかったり『であいのこ』が連載開始していなかったりぽむ先生的にはまことのことを女装男子と認識していることを知らなかったりします。また『JKおやじ!』も4巻の内容までなので、それらの最新展開を追っている皆様からすると鼻で笑ってしまうような誤読などがあるかもしれません。もっと言うと「別項で検討したい」みたいなこと書いてある部分についてもここ1年半で何も書き進められていないのですが、その際はコメント欄などでお手柔らかに鼻で笑ってください

『JKおやじ!』と『先輩はおとこのこ』から見る”男の娘”と学校と家庭

さつき3

     

初めに

 みなさんは「男の娘」という言葉をご存知だろうか。一般には「女の子にしか見えない可愛い男の子」のことを指す。しかし、そもそもこの定義は「女の子にしか見えない」というのは容姿のみにかかっている言葉なのか、生活全般も含めるのか、声は関係あるのか、時間的連続性はあるのか(日常的にそうなのか休日やイベントの時だけ女装をするだけでも含むのか)、そもそも「女の子」とは何か…と様々な議論が起きる程度には足元のがおぼつかない言葉である。そのため、言葉のキャッチーさに反して、使用される文脈などから意味を読み取らなければならないハイコンテクストな言葉になっており、さまざまな意味や意図を含んだ言葉である、とされることが少なくない。

 2000年代後半から流行したこの言葉は、2010年代にブームの兆しを見せ、「男の娘」のみを取り扱った専門誌として『わぁい![1]』や『おと☆娘[2]』が出現し、『ユリイカ[3]』で特集が組まれたり、『「男の娘」たち[4]』という本が刊行されたりするなどの動きが見られたが、現在ではブームは下火になっていると言わざるを得ない。しかし現在でもその言葉を用いたり、その定義に合うようなキャラクターを中心に据えて描いたりしている漫画作品は少なからず存在しており、拙稿にて以前取り上げた『不可解なぼくのすべてを(不可ぼく)』も一例として該当する[5]

 ところで、これは二次元美少女キャラクターの多くに言える話ではあるが、「男の娘」キャラの多くは未成年であり、何らかの教育機関に通っていると設定されることが多い。学校というのは制服を始めとして席順や修学旅行の部屋割りなど、多くのことが男女別に分けられている場である。それら男女が二分される状況において撞着的存在である「男の娘」キャラはどう対処する、あるいはどう当てはめられる存在として描かれているかは、学校が舞台であると限定しても管見のかぎり作品によって大きく異なっており、"どう描くべきか"ということに対しての読者側の要望も様々である。だが、そういった描写や要望は、実際の教育現場にどの程度即しているものなのかという点において大きな謎を残す。男子生徒や女子生徒のキャラクターを描くのであればともかく、「男の娘」キャラには作者や読者の身近に投影できる実在の人物がいることは多くないわけで、過去の教育機関を参考にするにせよ現代を参考にするにせよ、想像で補うほかない間隙になってしまっている。想像の塩梅によっては、中学や高校といった実際に存在する教育機関を舞台とすることで作品に与えられているリアリティを否定してしまうことにもつながり、作品を鑑賞する上でもノイズにすらなってしまう部分である。ただ、先述した「「男の娘」たち」でも述べられていたが、現実に「男の娘」が存在するとしたら、それはトランスジェンダーという側面も持たないわけではない。そのため、現実における教育現場での性的マイノリティの存在を考慮した制度や対応は、作品における「男の娘」キャラを取り巻く教育現場の実情にリアリティを与えることにつながると考えられる。あるいは逆に、漫画作品等の学校において「男の娘」を成立させている制度や描写は、そのキャラ自体の内面がどうであるに関わらず現実における性的マイノリティの存在を考慮した制度や対応につなげる事も不可能ではないだろう。

 また、「男の娘」について俯瞰した視点で語られるとき、少年漫画雑誌や男性向けPC用ゲーム作品の影響が大きかったと語られる一方で、少女漫画における「男の娘」的な女装男子については、その作品が与えた影響はおろか、作品の内容すら取り立てて取り上げられることがない現状がある。筆者の知る限りでも『なかよし』連載作品の『しゅごキャラ!』や、『ちゃお」連載作品の『少女少年』、『姫ギャル♡パラダイス』などアニメ化やゲーム化もされており少なくないファンがいる作品に「男の娘」的な女装男子が登場しているにもかかわらず、である。特に2022年12月18日現在のWikipedia「男の娘」記事においても、『ちゃお」や『なかよし』掲載の作品を出典・引用する項目が存在していないことは、その証左といえよう。(なお、筑波大学現代視覚研究会レビュー班においては過去頒布していたレビュー誌「キモオタ」において『少女少年』を特集していた回も見られるなど、古くからこの領域について強い関心を持っている会員が少なからずいたことが窺えた)。

 そこで今回は『不可ぼく』以降に連載された作品である、『JKおやじ!』と「先輩はおとこのこ(ぱいのこ)」を取り上げ、レビューの対象とした。二作品を取り上げた理由は両者が高校を舞台として、主人公の家庭が何らかの問題を抱えている点に共通性が見出せたためである。(なお『JKおやじ!』は作中「男の娘」という語が出てくるわけではないが、身体的に男性の主人公がメイクとウィッグにより美少女JK[6]として学校生活を送っていることは「男の娘」の定義に合致すると判断し、レビューの対象とした。また同作品は『ちゃお」の定義によれば「ギャグ」であり「爆笑四コマ」の類に入るため、個々の描写の整合性よりも漫画として笑いが取れるような勢いを重視している節も見受けられるが、学校や家庭環境といったそういった描写の背景にある舞台設定には一貫性があると考えて考察を行う)。なお、『JKおやじ!』に関してはちゃおコミックス既刊4巻分を、『ぱいのこ』についてはLINEマンガ全100話分を考察の対象とする。以下にそのあらすじを掲載する(が、以降のレビューでは稚拙な文章展開の割に一切ネタバレに配慮しないので、あらすじを読んだ時点で興味が湧いた場合はこのレビューを読み飛ばしAmazonやお近くの書店・LINEマンガなどで本編を読んでいただくことをお勧めする)。

JKおやじ!:加藤みのり先生による作品で現在『ちゃお』にて連載中。男子高校生「花野九郎」は高校2年の4月、同じクラスに転入してきた美少女JK「花野なでしこ」に一目惚れしてしまう。しかしなでしこの正体は普段九郎が家で邪険に扱っている父親「花野たこ八」であった。そのことに一切気づかずになでしこにラブコールを続ける九郎と、正体が中年男性だと露見しないように悪戦苦闘するなでしこを中心に、同級生らと繰り広げられる日常を描いた4コマ漫画。

先輩はおとこのこ:ぽむ先生による作品。高校生「蒼井咲」は、前から気になっていた先輩「花岡まこと」に放課後の学校で告白する。しかしまことはそれを断り、実は自分が男であることを明かす。その告白に対して拒絶するどころか喜ぶ蒼井だが、それをみてもまことは蒼井とは付き合えないという。その理由をはじめとして、多様な人物の心情が交錯して描かれる群像劇的な漫画。

学校に関する描写

 フィクションにおける「学校」の扱われ方は様々であり、「生徒会の一存」に代表されるような現実には到底ありえないような描写をしているものも少なくない。もちろん作者は学校現場に精通していない方が多いので、一部非現実的な描写になるのはどう転んでも仕方がないことではある。しかし今回取り上げる2作品はあくまで普通と思われるような学校に男の娘的女装男子がどうしてか存在していることが物語のフックになっているため、そのリアリティは読者が感情移入などをしていくにあたって重要な部分になってくる。生徒の雰囲気などは現実の学校でも年度ごとにかなり異なってくるとは思われるので、そういった流動性の低い制度面などを中心に考察を行った。

『JKおやじ!』における学校:放置に見えて先進的?

 『JKおやじ!』は設定の荒唐無稽さについて話題となることが少なくないが、各設定を個別に分解していくと、現代の日本の学校制度において「花野なでしこ」のような生徒が存在することは不可能ではないのではないか、と思われる。そのためなでしこの言動や状況は『不可ぼく』におけるもぐもや今回取り上げる「花岡まこと」のように、女装している事によってクラスから浮いた存在になってしまっているように描かれているキャラクターの鏡写し、あるいは浮かなかった成功例として読み取ることも可能になる(あるいはまことが周囲の生徒に男だと発覚する前の学校生活がどのようなものだったかを(やや誇張されている側面があるにせよ)読み取ることも可能であろう)。

 まず、『JKおやじ!』における学校の特徴としては、教師が生徒に関して持っている情報が『ぱいのこ』などと比較して少ないことが挙げられるだろう。これは現実の高校における流れとも一致するものである。例えば学校への編入にあたって、なでしこは通称名の使用、戸籍上とは違う性別としての扱い、生年月日の秘匿を達成している。

 このうち通称名の使用については外国人児童生徒に対する対応や性同一性障害の当事者に対応している例を見ることは可能だが、積極的に取り組みなどを示している学校は少ない。推進されない理由としては、1980年代から同和教育や在日外国人に向けた教育の方向性として「本名を大切にする取り組み[7]」が行われており、こちらと衝突してしまう可能性があるからだろう。

 性別については通称名よりも積極的な取り組みが明らかとなっている。多くの公立高校の入試において、願書や解答欄においては性別欄が廃止されていることが明らかになっている[8]。もっとも、廃止ができたのは調査票などその他の要素から生徒の戸籍上の性別は確認可能と判断されたためであり、学校が生徒の戸籍上の性別の収集自体をやめた、というわけではないという。その後の入学手続きにおいても戸籍や住民票に記載されている性別をどう扱うか、あるいはどう記入してもらうかについては学校ごとで対応に差があり、結局のところ入試だけ性別欄を廃止してもその後の高校生活では性別が否応なしにつきまとうという場合は少なくない。が、なでしこは教員から特段配慮を受ける描写を見せることなく、自然に女子生徒として扱われて体育祭や修学旅行へと参加している。つまりは学校として、生徒が生活を送っている性別と情報としての戸籍上の性別について紐づけることなく扱っている可能性が浮かび上がる。なお、こうした書類の管理権限は公立学校の場合各学校の校長が統括する権限を持っていて、校長の権限のもとで各情報を収集・管理する責任者が決定されている。柳川市の例を見る限り、その収集においては「(1) 人の生命、身体又は財産の保護のために緊急に必要があるとき。(2) 利用目的を本人に明示することにより、本人又は第三者の生命、身体、財産その他の権利利益を害するおそれがあるとき。(3) 利用目的を本人に明示することにより、実施機関又は国等が行う事務又は事業の適正な遂行に支障を及ぼすおそれがあるとき。(4) 収集の状況からみて利用目的が明らかであると認められるとき。[9]」場合を除いては「職務を遂行するために必要な場合に限り、かつ、その利用の目的を特定して、公正かつ適法な手段[10]」で生徒から直接情報を収集しなければならないとされる。『JKおやじ!』はおそらく私立学校が舞台であるために、上記で示したような状況に必ずしも影響を受けているとは言えないが、戸籍上の性別などを必ずしもそういった場合に該当する情報と考えているわけではない、あるいはその必要性を認めつつもプライバシーに配慮し情報を収集・認知している教職員を限定しているという可能性が浮上する。

 指導要録などにおいても生徒の性別や生年月日、本名は記載される[11]ことになる。しかしなでしこに対して教員が特別関心を抱かない、あるいは知らない状況が成立しているのであれば、教員が担当・閲覧可能である指導要録が限定的な部分であり、完全なものではないことを示していると言える。そういった生徒の個人情報に対する学校のプライバシー管理が、教員に対してですら徹底していることが、なでしこを成立可能にしていると言えるだろう。

 加えて諸々の描写からの推論として『JKおやじ!』高校の生徒の価値観として、身体的な性別が雌雄どちらかであるかと学校内で演じているジェンダーについて、両者の関連性については特別問題視しているわけではないことも挙げられる。作中なでしこの更衣場所がどこなのかといった問題に関しては一切触れられることがないが、水泳の場面ではなでしこは水着に着替えて登場している[12]。修学旅行の回においてはなでしこは部屋の風呂を使って大浴場を避けているが、その理由についてなでしこの友人が詮索している様子は一切見られない[13]上、就寝する部屋自体は同室で、なでしこは女子として扱われていることがわかる。つまり先ほどは個人情報の徹底的な管理について挙げたが、それだけでは説明がつかない描写が散見されるため、逆に教員や生徒が戸籍上の性別やそれに準ずる性別の情報をわかっていたとしても気にしていない可能性もある、というよりはそもそもそうした姿勢が根付いているからこそ情報としての性別に関して知っているそぶりを見せないのでは、ということである。これは完全な憶測だが、おそらく九郎はなでしこが身体的に男である事に気付いたとしても、それを以てすぐになでしこの正体がたこ八であるという推測にはいたらないのであろう。

 生年月日も上記と同様だが、こちらは性別以上に秘匿が必要であるという意識が薄いと考えられ、そのために先ほど示した推測の一つである「学校として情報は収集しているものの、教員がその情報にアクセスできない」状態になっているように見てとれる。現実において生年月日をネックとする事例がそこまで多くないので、それに対処したり勘案したりした事例が積まれていないため詳細な実態がわからない、というのも正直なところである。

 2022年現在、現実の高校において戸籍上の性別を完全に秘匿して入学をすることは現実的ではない。一方で、学校に提出するべき個人情報とは一体なんなのか、そのうち統括責任者の校長ではなく教師が把握する”べき”ものがなんなのかという点については議論が重ねられているところであり、その議論の展開や、生徒教師の持つ性別観によっては戸籍上の性別とは関係なしに望む性別での生活を行う体制は十分に成立可能な素地があるといえ、特段個別の配慮事項を検討することなしに「花野なでしこ」が成立することも不可能ではない、と言えよう。

『ぱいのこ』における学校:場所だけあればいいという話じゃない

 『ぱいのこ』はインターネット上の評によれば”まことを中心とした3人の人間模様と繊細な心理描写が、多くの共感を得ている[14]”という。つまり学校という舞台の詳細な設定自体は作品の主眼として置かれている訳ではないということが窺える。しかし、共感の前提として読者の学校経験と重なる部分があることは間違い無いだろう。しかしそれは本当に重なりうるようなもの、つまり読者が経験した学校と似た風土や制度になっているのだろうか。

 『ぱいのこ』で舞台となる学校は、まことの父親の友人が運営している[15]ことが明らかになっている。父親によれば、この学校はまことが「好きな性別で過ごせるよう協力してくれる[16]」、とされている。もちろん体育倉庫らしき場所をまことに提供して「君の好きに使っていい[17]」といっており、これが、作中まことがセーラー服とスカートを学校内のみで着れることの理由づけになってはいる。しかし、作中の描写において、実際にはまことは「パッシング」の失敗の結果、関わりを遠ざかられる対象になっていた[18]上、それに対して特に学校側は何もしていない。まことがどうして性別が男だと発覚したのかに関しての原因は後述するが、「好きな性別で過ごせるよう協力してくれる」とは、倉庫の貸し出し以外の点では具体的にはどのようなものだったのか。

 まず、スカートとセーラー服の組み合わせの制服を着ることは”女装”であるという認識が、本人含め[19]多くの(男子)生徒からされていた[20]。また、教員もまことの格好から他の男子生徒とは違う存在であると認識していた[21]ほか、まことが男だと黒板に描かれて以降初めてまことを男だと認識したように描写されている教員[22]すらいた。これはつまりこの学校において制服が男女で明確に分けられている(と少なくとも生徒には認識されている)ことを意味しているのではないか。岐阜県の公立高校をはじめとして[23]少なからぬ学校においては、校則上制服を明確に男女別であると規定しない方針が取られ始め、男女で制服のデザインを分けない「ジェンダーレス制服」を採用する学校も現れ始めている[24]。つまり、制服規則という面だけで見るなら、現代においてそれが”異性装”として成立する可能性は減少傾向にある、といってよい。もちろん校則だけ書きかわったところで現状の運用や生徒の認識が変わるわけではないので、一概に『ぱいのこ』の描写を時代にそぐわないと断定することなどはできないが、『ぱいのこ』の学校における制服に対するジェンダーのイメージは、現代の学校の潮流と比べた時にもやや保守的な位置にあるということは把握できるだろう(にしてはウィッグの金髪[25]に関しては何も触れられないなど、やや校則が歪な気がしないでもないのだが…)。逆に言えば入学当初のまことが”女子生徒”として「パッシング」できたのはこの制服に対する生徒の固定観念を利用したものであるとも言えそうであり、その点ではまことの着る制服について裁量を認めていること自体には一定の意義を見出せそうである。ただ、主要キャラ3人の以外の描写としてまことについて「LGBTなのではないか」といったことや「性同一性障害の可能性はないのか」といったことが詮索されていない[26]ことや、それこそ「男の娘」と言った捉え方を蒼井以外の人物が一切述べていないのは、そういった発言がまことに対して適当なのかという吟味はさておいて、現代の学校描写としては若干妙である。

 さらに、まことのクラスの日直は男女それぞれ一人である[27](『JKおやじ!』においては九郎となでしこが二人で日直を担当する回自体は存在する[28]が、日直の選定方法自体は明言されていない)、など、学校においては教師も生徒も男女二分法の価値観をかなり強くまことに提示してくる場となっているように思える。ただ先述のようにまことの性別を明確に把握していない教師がいる中で、どのように男女別の日直が成立していたのかは謎である。学年や担任によって日直の分担方針が違うことはあっても、性別情報の取り扱いに差が生まれるのはどうかと思われるのだが、それ以上の描写はなされていない。

 実際の学校現場においては教師(特に養護教諭など[29])が、性別に悩みを抱え、かつ家庭にその事情を十分理解してもらえないでいる児童生徒に対して相談に乗ったり、関連書籍や団体との連絡を取り持ったりする場合[30]がある。しかし、『ぱいのこ』における教師は(描写されている限り)本人に対して「もしまた何かあったら相談してくれ[31]」と言いつつも「ただ…その[32]」「あんまり目立つようなことはするなよ[33]」と忠告するだけであり、特に支援団体などとの繋がりなどを支援しようとする動きは見せておらず、まことが孤立した状況になっている事も窺える。

 そもそも、まことは入学当初「パッシング」を行えていた[34]ものの、”男”であると発覚して以降は”女装”している存在であると見做されるようになった。この時疑問なのは、そもそも学校はまことを”女子生徒”扱いしていたのか、という事である。まことは男として生きるか女として生きるか悩んでいる、と言いつつも、高校入学時には女子生徒として埋没しようと指向していた。であるならば、父親を通じて運営側にそういった意向を全く伝達していないとは考えづらく、教員らもまことを”女子生徒”として扱い、仮に男女別に分けた名簿などがあるならばまことは”女子生徒”あるいは単純な男子生徒ではない存在として扱っているのが妥当ではないのか。しかし作中で描かれている描写を見る限り、パッシング失敗後のまことは”男子生徒”として他の生徒も教師も扱っている[35]節がある。身体的に男であると発覚した直後に生徒がまことに対してそう煽ることはともかくとして、学校側がいきなり全ての扱いを男子生徒とするとは考えづらい。とすると考えられるのは、まことが身体的に男であると発覚した理由が、まことの扱いを男子生徒にしなければならないほど深刻なものであったとみなされたか、そもそも学校側は一貫して、まことについて事情を抱えた”男子生徒”として扱っており、”女子生徒”として「パッシング」できているというのは入学初期のごく短期間の、授業などではない場面での人間関係においてにすぎなかったのではないか、といったものだが、作中の描写を見る限りまことが身体的に男だと発覚したのは直接的には対男子だけであり、かつ以降の描写はほぼ全てが生徒の中の雰囲気の話で済まされ、学校側の組織としての対応が一切見られない他、まことが”女装”をやめた際のクラスメイトからの反応[36]に説明がつきにくいために、おそらく後者…学校はまことを”男子生徒”としてしか見ていないために、まことが”女装”している存在として後ろ指を刺される状況になってしまったのではないか、と推察される。もちろん、まことが”男”であると発覚した際に扱いなどをあらためて話し合った結果、”男子生徒”として扱うことを決めたという主張も展開可能だが、その場合そういった話し合いにまことの両親が参加しないのは不自然であり、また参加したとしたら両親共に描写が不自然[37]であるため、学校側は一貫した扱いを取っていた(がそれはすべての教員に対して共有されていた情報というわけではない)、という説の方がやや有力か。

 以上を踏まえると、『ぱいのこ』でまことが通っている学校は、作中まことの父が述べたような、「好きな性別で過ごせるよう協力してくれる」体制が整っていると読者が感じられない描写が多いように思え、まことの困難の原因も体勢の不備に由来するものが多いように見てとれる。まことの父、あるいはその友人に思慮不足な面があり、まことの要望に対して十分に応えられるわけではないにもかかわらずあたかも応えられるかのように進学を進めてしまったということだろうか。それとも、現代において「好きな性別で過ごせるよう協力してくれる」といって、たとえ着替え場所や制服の自由を提供したとしてもこのような問題を引き起こしかねない程度の不十分なものが多いという問題提起であろうか。もちろんまこと本人が配慮を求める事項について学校へ明確な意見を言っていない故に対応をしあぐねているのでは、ということも指摘できるが、その場合もその場合で、過ごしたい性別がなんであるかを探るための支援団体や医療機関への選択肢を提示してくれていない点で本当に「好きな性別で過ごせるよう協力してくれる」ものであったのかと言って良いのか疑問が残る

 ところで、『ぱいのこ』では学校行事などに関する描写があまり見られない。作中の経過時間は約一年だが、クラス別や学年別で行う行事の場合蒼井の描写をしにくいためか、一年全体の行事全てを網羅して描いているわけではない。もちろんそう言った特別活動をどの程度実施するかの裁量というのは学校側にある他、実施されていても捨象されている部分もありそうなのだが、創立記念パーティ[38]と文化祭[39]及び修学旅行[40]のみが描かれており、体育祭[41]や合唱祭[42]、といった『JKおやじ!』では何度も[43]見られた行事については描かれることなく、またその時のまことの扱いがどうだったのかについても触れたり回想されたりすることがない。描写的にまことが他の生徒から”女子生徒”扱いされていた時期にはこういった行事はなさそうではあったが、しかしまこと自身がそういった行事に対してはどのように対処していく方針だったのかについては、作中不明瞭なままであった。
 修学旅行については後述する着替えに関する描写が見られた[44]ほか、部屋割りなどでも単に男子生徒として扱われていることが明らかになった。その時ルームメイトからもトランプに誘われるなど、人間関係についても問題を多くは抱えていないことが示されている。

 加えて、『JKおやじ!』においてはギャグ漫画というジャンルや掲載誌の対象読者層を考慮すると割愛された感もやむなしである”着替え”に関する描写だが、こちらもまことの第一話の際のそれや登下校の際の描写を除くと実は『ぱいのこ』でも直接的には描写されていない[45]。この時、登下校以外も倉庫を用いているのだとすれば以後示す不自然な描写にもある程度説明はつくのだが、その場合も不自然な描写は残る上、”女子生徒”と思われていたことに対しての説得力も若干薄くなる。現実社会においては土肥(2020)がトランスジェンダー生徒に対して着替え場所を分ける、という措置もそこで会話が行われたりするという点からすれば望む性での生活を完全には認められていないのではないか、と問題提起していた[46]。つまりは埋没していく過程では女子と同じ場所で着替えなければ会話に参加できなかったり、着替えの時だけ姿を見せなかったり、友達と一緒に下校したりすることも難しかったりで「なんらかの事情を持つ生徒」と察されてしまう可能性が高いということである。特にまことの場合、入学後にカミングアウト[47]したわけではなく、入学時の時点では他の女子生徒にとっても男子であるという情報を知っているという点での抵抗はないはずで、そういった場所で着替えられないことにされている明確な理由は作品からは見出せない。それとも入学時に倉庫の場所貸出と引き換えに、学校生活上の着替えに関するなんらかの取り決めを教員と交わしたのであろうか。その場合はやはり最初からまことを正式に”女子生徒”扱いする気はなかった学校の方針が伺えそうだが、全ては憶測にすぎない。男子と着替えることに抵抗があるのであれば、その際は倉庫を使った方が望ましそうではあるが、一方でやはり教室からあまり近くない位置にあると思われる倉庫までいちいち着替えに行くのは負担があると思われ、またコミュニケーションの断絶という点ではクラスからより一層浮くことにもなるだろう。そのため藤井との関わりがなくともまことはいずれ身体的に男であることが他の生徒に発覚したのではないか、と考えることもできる。ただし回想シーンでは女子生徒である早瀬が一切まことに対して違和感を持っていなかったことが示されている一方で、まことの着替えに関しての言及は一切なされていなかったことに加え、上半身の特徴で男子生徒だと分かるような扱いがされていたために、”着替えれば男子だと分かるような扱いだがいかにも着替えそうな場面でもその過程が省略されている”ことで、上記着替えの描写に関しては宙吊りになったまま物語が終えられてしまっていた節がある。身体的に男であると発覚して以降の着替えについての描写も修学旅行での風呂以外にはなかったために、逆に他の生徒が驚く描写が風呂で初めて出てくるという、奇妙な描写になってしまっている(全裸を晒すという意味では驚くかもしれないが、上半身をあらわにするという意味では体育の時間などに同様の状況になっていたことは少なくないと思われ、そこまで修学旅行という特殊な状況に依存したものではないようにも思える)。だとするとやはり着替えの時は倉庫で行っていたかあるいは、全生徒体育のある日は中にジャージや体操着を着て登校する文化のある学校だったということだろうか。

 (なお、修学旅行で着物に着替える[48]描写があったが、着付けの際には基本下着姿から行うため、インナーの着用は必須であると思われる[49]。1話の描写からしてまことは下着をつけていなかったような気がするのだが、どうしたのだろうか…[50]

  ※追記(2024/05/07)

 「性別」が関係する行事に対する対処の方針が定まっていないという問題についてだが、『ぱいのこ』作中において実際には時系列の関係上明確にまことあるいは学校が選択あるいは支援を行ったであろうと推測されながら「描写が省略されている」場面も少なくない。例えば後述する藤井に関連する事件の発生時期は、藤井がサッカー部に所属してからである。全国的な統計データがあるわけではないが、(藤井がサッカー部への推薦を受けているなどではない限り)部活動に正式に所属するのは5月以降となる場合が多いように見受けられ、すなわち事件の発生までには約1か月の猶予があったと推測される。まず、この間の学校生活において体育など通常授業でまことがどうふるまっていたのかについて詳述がされていない。さらに言うなら、部活動所属までの時期に行われる学校行事としてオリエンテーション合宿や健康診断なども行われる可能性がないわけではないが、それらについての言及もされていない。もちろん、前者はすべての高校で行われる類のものではないし、後者についても学校保健安全法施行規則においては6月30日までに実施すればよいとされているため、藤井がサッカー部に所属するまでにそういった類の行事が発生しない可能性がないわけではない。しかし、その周辺のスケジュールおよびまことや学校の対応が示されてはいないため、事件当時のまことが、学校において、あるいは藤井においてどのような生徒に見えていたかについては、実際のところ少なからぬ謎が残されているのである。 

さらに付言するなら、藤井にしろ藤井でないにしろまことの性別を暴露したことは「アウティング」であり、人権侵害とみなされる場合もある行為である(ただし、暴露することに問題があるのは性別そのものではなく性自認にとどまるという見方もなくはない)。この問題に対して、学校は教育上藤井をはじめとするまこと以外の生徒に対して人権教育の観点からみて指導を行ったりするべきであると考えられるが、そこについても言及がされていない。

家庭に関する描写

 『JKおやじ!』においても『ぱいのこ』においても「家庭」は外見上「女子」として過ごそうとしている主人公に(比喩ではなく、物理的な容姿の切り替えとして)「男」であることを要請する場として作用している。しかし、それが生じる原因や理由は作品それぞれで大きく異なる。

『JKおやじ!』における家庭:母親の不在

 『JKおやじ!』において、花野なでしこ(たこ八)の家族として登場するのは反抗期の息子、花野九郎のみである。花野九郎はなでしこに対しては恋愛感情を抱いている[51]が、たこ八に対しては反抗期的な態度を取っているように描写されている[52]。この時、たこ八の妻、九郎の母親に該当すると考えられる人物については4巻までで存在すらも言及されることがない。九郎にとっての母親の不在は、読者にたこ八が母親的な役割を担っていた双性的な立場の人間であったことを暗示させることによって、なでしこに変装する動機に自然とつながりを持たせるだけでなく、なでしこと九郎の関係を疑似的な恋愛関係として読者の側が見立てることも容易となる(なでしこ(たこ八)の愛情が向かう先が拡散しない)。九郎はなでしこに対して異性愛的な感情を向けているが、なでしことしてのたこ八はそれに対して抵抗感を持たず、むしろ好意的に受け止めている。たこ八が本来九郎に求めているのは家族愛のはずだが、なでしこの状態では性愛と未分化な状態で描かれることが多い[53]。たこ八は家族である九郎からの愛情に飢えているがゆえに、その代替としてなでしこに向けられる九郎のリビドーを自らへの愛情として受け取っているのだ。父親と息子の近親相姦的なこうした描写を可能にしているのも、母親に該当する立場が不在であるが故であると言えよう(もっとも、恋愛ではなくその先の結婚に対する願望を多く描く[54]こと、また育児をはじめとした子供に関する描写についてはたこ八と九郎の関係を経験談的に回顧する[55]ことにより、直接性的なイメージに繋がる要素を極力軽減しようとしている節は見受けられる)。

 また、たこ八がたこ八として男性的な役割を果たすことが期待される要因としての妻が不在である(学校外に扶養すべき存在がない)ことで、たこ八がなでしことして生活することに読者が倫理的な抵抗感を強く持たずに済むことにも繋がっている。

 女装する父親と反抗期の子供という構図自体は『ぱいのこ』でのまことの母親と母方の祖父との状況と同じであったといえるが、一番の違いは九郎にそれが発覚していないことである。たこ八は度々自らがなでしこであることを暗に唆す[56]のであるが、それについても九郎は一笑に付している[57]。これは『ぱいのこ』で親子間の亀裂の決定的要因として描写された様な、女装が子に露呈する状況が発生する可能性が低いことを示し、読者に対して不要な不安感を抱かせないことにつなげていると言えよう。また先述した学校の描写からして、九郎はなでしこの身体的性別は気にしていないように見られることから、あくまで同年代の他者と親子に対する関係性の差を抽出して描き出している。

 ただ、倫理的な呵責などはともかく、たこ八は実際、どうやって生計を立てているのかという疑問は残る。4巻で屋台のたこ焼き屋を出店していることがあることは明らかになったが、なでしこで生活している時間は出店できない[58]上、現実的に高校生二人を生活させる[59]ための十分な収入になるとは思えない。花野家のトイレが比較的大きかったことを考えると[60]金銭面で不都合があるとは思えないので、投資や不動産経営などで収入を得ているのであろうか。これは完全な憶測ではあるが。

 なでしことたこ八の切り替えについて、読者としてはずっとなでしこのままの方が私生活などでは有利ではないかと考えなくもないのだが、①九郎は2人を別人として認識して[61]いること、②またたこ八自身、九郎にはなでしこの状態だけでなくたこ八の状態でも家族の愛情を向けてもらいたい[62]こと、③メイクの時間的な限界[63]と言った理由から行われていることがわかる。③についてはメイクキープミストなどの活用をすれば解決しそうな問題であり、かつ描写によってメイクが維持可能な時間幅にムラがあることから、そもそもギャグ描写であり実際には長時間維持が可能、であると捉えるべきであろう。特に①に関しては本人も発覚を恐れてはいそうであるが、今の所なでしことたこ八が識別されている要因としては顔(メイク)しか想定できず、その他の腹巻き[64]やふんどし[65]、制服[66]、そしてたこ八がなでしこと同時に出現していないこと[67]は識別要因になり得ていないことが読み取れ、逆に切り替えをやめた場合単に言葉の上のカミングアウトをおこなったとしても具体的なメイク手順などを再現して見せたりしない限りは不在になったもう片方が心配されるだけなのではないかということが推測される。

 そして『ぱいのこ』との対比で言うならば、②についてはたこ八本人の願望であり、九郎に対して(反抗期であることを差し引いても)今の所たこ八として健在な姿を見せる必要性は必ずしもなく、一定期間不在であっても許容される関係性になっていると言うことである。これは毎日下校しないという選択肢の取れない(ように思われる)まことがその”私でいられる”自分を学校の中でしか表現できなかったのとは対照的であり、見てきたようにその差の根底には「親」と「子」という金銭や行動の制限の立場上の差があったと言えよう。

『ぱいのこ』における家庭:別居しない親子

 こちらでは、家庭はまことが登下校の際制服を着替えなければいけない原因として象徴として作用している。そのことが「パッシング」失敗の遠因なのではないかと推測された(が実際には異なっている)ことは前述した通りである。

『ぱいのこ』におけるまことの家庭の象徴的な描写として、父親と母親の思想の対立が挙げられる。母親はまことが「男の子らしく」育つことに対して拘泥しており、ピンクのハンカチすら持つことを抵抗感を示す描写[68]が見られる。一方で父親はまことの生きたいように生きてほしいとしており、そのためまことは父親の提案に従いつつも、母親の顔色を伺わなければならず、結果として父親の提案してくれた通りには「試してみる」ことができていない上、提案自体には乗っかっている手前父親に対して母親の問題について追求することもできず、まことが母親に対しても父親に対しても面従腹背になって1人で抱えてしまうほかないと言う状況に置かれていた。

 母親の価値観が周囲の親と比べてもかなり保守的であるという描写は回想シーンからも見受けられる[69]こと(つまり周囲の親と自分との比較でそうなったわけでは必ずしもない)であるが、その理由について、過去母親は自分の容姿に自信があり[70]その上で着飾っていたのだが、母親の父親が母親の捨てた衣服や化粧品を勝手に使用して夜に街を徘徊しており[71]そんな父親を街で見かけてその(行動はともかくとして)容姿に対して「気持ち悪い[72]」という感想を抱いてしまったこと、その後父親のことを「もういい 忘れよう」として息子のまことを父親のようにはさせないと自らも着飾りをせずに育てていたにもかかわらず似たような性向を持つようになってしまったことに拒否反応を持っていたことが明かされる[73](のだが、”忘れよう”としたはずの母方の父の連絡先をなぜかまことの父親の方が持っていたので、名実ともに縁を切っていたかは怪しいところがある)。つまりはまことの母親は親族の女装に対して心的外傷後ストレス障害PTSD[74]に近いものを抱えており、まことに対する応対はその回避症状であったと見ることができよう。実際、まことの母親が自らの価値観自体を絶対だと思っていないのはまことに対して「幸せになってほしい[75]」という言葉かけになっている部分からも読み取れることであり、また父親に対するトラウマのうち容姿面が大きいのも「変わった生き方をするということはきっと知らないうちに人に嫌な思いをさせることになると思うの[76]」という言葉や、制服を着たまこととショッピングモールに行った際のまことに対する子供の「あのネーちゃんでけー!」に反応して「…ね やっぱり…[77]」と述べていたことからも示唆的であろう。そのためにまことが級友と修学旅行で撮った映像を見ることでやや態度を軟化させている[78]。加えてまことは美形であった自分の形質を遺伝しているものの、それすなわち自分の父親の形質を遺伝しているとも取れるので、壮年期にはその格好が似合わなくなる可能性も危惧していたものだと思われ、そちらは「人生って思ってるより長いのよ[79]」といった言葉に表れている。最終的にはただこちらに関しては、『放浪息子』における二鳥の事例[80]のように第二次性徴を経ることで女装をしていても男性だと見られることがまことに起こっている描写は一切見られないために、今後も極端なまでに似合わなくなるという可能性は考えづらいように思われる。

 父親はまことに対してかなり協力的な態度をとっているが、その協力も徹底したものとは言えないのは学校の項で述べた通りである。家庭においても同様の状況があるといえ、上述した母親の過去を把握していながらも具体的な対処はせず、ショッピングモールに行くまではまことの学校での状況なども全て伏せていた。結果的な問題の対処にはまこと自身で挑まなくてはならなくなっている。この点、『不可ぼく』において主人公以外の当事者との出会いが親の心境変化につながった[81]のとは対照的である。

 また、花岡家の家庭の金銭事情にもよるが、母親がまことの変化を物理的に認知してしまうことにストレスを感じてしまうのであれば、『不可ぼく』のもぐもの例のように、まことを別居させれば[82]問題なかったのではないかと感じる描写は少なくない。高校生段階で親と別居して学校に向かうこと自体極めてレアなケースというわけでもなく、『不可ぼく』においてもぐもの価値観に理解を示せていなかったのは特に父親の方ではあったが、それでも高校段階での別居を許し、結果的にもぐもの学校生活を支えていた[83]。またこうしたテーマ性のある作品ではない「邦画プレゼン女子高生 邦キチ! 映子さん[84]」においても主要キャラである「小谷洋一」は高校生であるが下宿生活を送っている。下宿生活であれば、まことは登下校であっても問題なくセーラー服とスカートで過ごすことができ、「パッシング」がより容易になったであろうことは想像に難くない。

 ここまで見てきたように、花岡家においては、父親と母親が直接は対話を行わず、それぞれ違う価値観をまことに伝達してしまっていることにより、その融和にもまこと本人が赴く必要があるという状況が窺えた。また、父親はその状況を問題視している部分がありつつも、最終的な解決はまこと本人に担わせなければいけない部分があった。そのまことも自分の思いを語ることはあったものの、最後まで学校であった出来事(事件)について自分から口を割ることはなかった。また最終話まで自分の望んだ制服で家から登校することもなかった。そのため、話の展開に対して家族の関係はどこかドライな印象を抱かせ続ける結果となっている。

学校における「なでしこ」と「まこと」

『JKおやじ!』において女装男子であるなでしこは、学校内において本来の性別が男であることを徹底的に伏せる(パッシングの実践を行う)ことに成功し続けている。読者とたこ八当人においてはそれがパッシングの危機と見做せる場面は度々登場するものの、その事によってたこ八=なでしこという事実にたどり着くキャラクターは現状誰一人現れていない。「パッシングの危機」は各4コマのオチとしてギャグで処理[85]され、そこから実際にパッシングの失敗や致命的状況に陥る場面は描かれないのだ。作中時間が高校2年生から進級することがない(いわゆるサザエさん時空である)こともあり、高校卒業後などの進路選択によって発生する新たな危機も描かれることはない。

『ぱいのこ』において女装男子であるまことは、まことは容姿こそ「かわいい[86]」のではあるが、学校において孤立している存在になっている。その理由については過去「パッシング」に失敗し、まことが男であることを「みんな私が女装してるの知ってる[87]」状態になった原因とされているが、作中においてはその事件も含め他の(作中で主要な扱いではない)男子生徒からの言及はなされる[88]ものの、女子生徒から「まこと」に対してどう言った印象が持たれているかについては多くない(特に事件前後の印象の変化に関しては早瀬をのぞいて現在まで登場する人物からの視点では一切記述がない。まことは幼少期、男子よりも女子と一緒に遊ぶことの多かった子であったと描写されており、また入学当初は”女子生徒”として通用していたことからも分かるとおり、女子相手のコミュニケーションで難を抱えているという訳ではないようなのだが、蒼井や早瀬・羽川以外に親しい知り合いがいるという描写はなされていない)。

『JKおやじ!』の大筋のストーリーラインでは、たこ八がなでしこを名乗って”女子高生”としての生活を送ることは、あくまでも子である九郎に拒絶されずに接触されるための手段[89]に過ぎず目的ではないことが度々明言されている。しかしそのことは目的に直接的には関係ない女子高生としての生活を捨象する事を意味しておらず、雑誌に写真が掲載されたり[90]合コンに参加したり[91]する事もある。たこ八は単に容姿に留まらず言動や人間関係においても女子高生のそれを模倣しているのだ。(もも子以外の女子生徒との仲についてはほとんど描かれることがないために不明瞭な点も少なくないが、2巻80~81ページなどで他の生徒からも「なでしこちゃん」と呼ばれる程度の交友関係は持てている[92]事が窺えるので、クラスで浮いている、という訳ではなさそうである)。

模倣しない(しなくていい)まこと

一方、『ぱいのこ』のストーリーにおいては、まことは「女装」をしつつも言動や対人関係においては模倣を志向していない。蒼井から告白された際に聞かれてもいないのにウィッグを取り自らの上半身を露わにさせている[93]。口頭で「男である」と述べれば済む場面であるにもかかわらず、明らかにオーバーな言動であり、読者はこれ以前もまことがオーバー、あるいは模倣を志向しない言動をすることによって諸々のトラブルを引き起こしてしまったのではないかと連想することになる。

 そのトラブルの一例として挙げられるのが入学当初である。当時まことはウィッグも被らず短髪の地毛にセーラー服とスカートを着用しており現在とは印象が異なっていた。そこでまことは中学時代からの友人である(=まことが男であることを知っている)りゅーじ「セーラー服を着たまことを見て驚いた[94]」「セーラー服を着たまことはヘンなヤツだった[95]」という回想も相まってウィッグを着用しないすっぴんであったことが「パッシング」の失敗につながったのではないかと読者に暗示させる(暗示させるだけであり、作中その後発覚した事実としては実際にその点が原因で”男”だと判明した訳ではない)。ちなみに他にもオーバーな言動としてドレスを破く[96]、などが見受けられた。

ウィッグを着用して以降の初対面の生徒や人物からの反応は「美人」などであり、りゅーじも、初見では「女の子がいた[97]」とまことと同一人物であることやその性別を見定めることができなかった。蒼井の例からも分かるとおり、一見でなく注視されたとしても女子生徒に見られるようになっている。つまり模倣が要求される「パッシング」を試みていた段階ではなぜか容姿の模倣を行おうとせず、それが失敗した段階で初めて容姿の模倣を行うようになっているという、奇妙な転倒を見せているのだ。作中ではウィッグを着用し始めた理由として自分が”男”であることが多くの生徒に知られているからであるとしていたが、それはウィッグを着用し始める理由にはなっても入学時に着用しなかった理由としては不十分なようにも感じる。むしろ学校内で女子として通用しつつも登下校で男子制服に戻らなければならない事情を抱えていた以上、校内と校外の姿を一致させないためのなんらかの戦略は取られて然るべきだったことを考えると、入学当初こそウィッグを着用していなかったことが不自然、とも言えてしまう。外見を端的に片側の性(扱われている性)に寄せる方が学校生活をやり過ごしやすいという事実自体は『ぱいのこ』本編でも描かれている[98]

実際には上記のような暗示させる描写はさておいて、りゅーじの認識と早瀬や藤井をはじめとする生徒の入学当初のまことへの認識は異なっており、ウィッグをつけていない状態でも「美少女[99]」と認識されていた。そしてその認識はまことが模倣を行えていない場面でも変化が訪れることはなかったが、身体の性別が藤井に露呈し、その情報が伝播することによって周囲の生徒からの認識が変化した。つまりまことの言動は見た目から判断される”女子生徒”という状況からであれば全て許容されていたにもかかわらず、”男子生徒”という情報に上書きされた途端に見た目含め許容されなくなったということであり、容姿や言動の実際よりも情報が生徒たちにとって重要視されていたということが伺えよう。

そもそも現在の身体的に男ということが周知となっての交友関係と、それ以前の交友関係の差についても不明な部分が多い。完全に断絶したわけではなさそうであると読み取れはするものの、交流する場面の多い女子生徒である羽川は「まことくん[100]」と(それだけで断言するのも早計ではあるが)男子生徒として呼んでいたりする他、など、事実が周知になってから交友関係を結んだ生徒との関わりの方が多い。”女子生徒”として関わっていた他の女子生徒として早瀬の存在が挙げられるが、早瀬とまこと自体は修学旅行で班が一緒になるまでは交友関係が切れてしまっていた[101]他、早瀬以外にまことが関わっていた女子生徒についても、身体的に男ということが周知になった直後におそらく同一人物たちだと思われる人物が早瀬に対して「やめときなって早瀬ちゃん」「こっちおいで」と言っているのが描かれるのみ[102]で、その後まこととの関係性や印象がどうなったのかについては描かれていない。以降、その事件を具体的に分析していきたい。

回想シーンの謎

 まことのパッシングの失敗は藤井というサッカー部の生徒に告白されたことに起因する。断ってもなお諦めず、断られた理由を聞こうとする藤井に対してまことは自分が「男である」と表明するが藤井は信じず、手を掴み強引にまことに迫る。その時まことが転倒してしまい肌が露わになったことで藤井にまことが男であるということが発覚してしまう。まことは藤井に「お願いだから誰にも言わないで」と懇願するも、その願いも虚しく後日学校の黒板に「花岡まことは男」という落書きがなされる[103]。本作を象徴する悲劇的なシーンといえるが、こちらにも謎が多い。

藤井の言動について

 まず、藤井という人物について見ていきたい。藤井は一見すると、自分の好きに対して忠実な、あるいは自分を偽って過ごすまことに対して不寛容である現実の象徴のようにも受け取れるのであるが、果たしてそうであろうか。

 藤井は第64話で「こいつ花岡さんのこと好きなんだって~」と他のサッカー部員から言及され、それに対して「やめろよ」と発言して、自らのプライバシーを守ろうとしている程度にはまことに対して純粋な好意を持っていた。当時のまこと視点からの学校生活が描かれていないために詳細は定かではないが、そこまでまことと交友関係があったとは考えづらく、まことの容貌が美少女と評されていたことも考えると一目惚れであったと思われる。つまりこの時はまことのパーソナリティが如何なるものであるかは考慮に入れていなかったのである。そして同話の後半で放課後に告白する場面が描かれるのだが、「…で気になってて付き合って欲しいです」の後「…ごめんなさい」とまことが拒否しても「…どーしても無理?なんで?」「言ってくれなきゃあきらめられないじゃん?」と食い下がる程度には強く惚れていたことが窺える。一方食い下がる際に理由を聞こうとするのはプライバシーを考慮しているとは言い難く、同タイミングで「手おっきいね(笑)」ともまこと側にコンプレックスがある可能性を考慮しない発言をしていることから、64話前半では他人に対しては自分のプライバシーの侵害に対して反対を表明しているのに対して、後半では自分は積極的に他者のプライベートに対して聞き出そうとする傾向に陥っていたと見てとれる。さらにその後の「…実は僕男なんだ」というまことの告白に対して「ふつーにひどくない?(笑)俺まじめに告ってんのに」と発言するなど、他者のパーソナリティを把握していないにもかかわらず、その情報がいざ手に入っても信用していない(無意識下で断定している)。そしてその後「いやいやちゃんと答えろよ」と無理にまことの手を掴んで押し倒すという強引な行動をとり、セーラー服の内側を見ることでまことが男だということを知るのだが、知った瞬間に「うっわ」「さわんな」「変態」などの罵声を浴びせるなど、今までの強引な態度を翻すような行動をとっている。

 藤井はまことが純粋に好きなのであれば、「ごめんなさい」と言われた時点で潔く引くべきかと思われるがそうはしなかった。つまりは藤井がまことに告白した状況自体が、藤井の純粋な恋心以外の要因で引き起こされた可能性が浮上し、さらにその状況に対して藤井が焦燥感を抱いていた可能性がある。第64話前半では、まことに対して直接本人から話しかけられなかったのに対して、後半では自ら身体に触れるなどかなり積極的な強引な態度をとっていることに象徴的である。推測できるのは、他のサッカー部の同期に対して恋人が出来る中、自分だけが恋人ができていないことを他部員から煽られており余裕がなかった、と言った類のものである。この推測は第87話で藤井が再登場した際、黒板に「花岡まことは男」と書かれていたことに対しては「あれ…広めたの俺じゃないし」と述べていることや、現在も「ずっとからかわれてるし散々だっつーの!」と言っている[104]ことから、自身以外の他者の価値観の影響をかなり大きく受ける環境にあることが窺え、焦燥感から平時の性格よりも過激な行動に移ってしまう性格であることが分かる[105]。ちなみに黒板の落書きの件については藤井の言をそのまま全て信じるのなら誰が書いたのか不明だが、上記の推測からするとサッカー部員と告白の成否について何かしらの連絡を取っており、その流れでその部員たちに言及したということが予想される。まことが早瀬としか深い交友関係を築けていなかった故に孤立してしまったことを考えると、藤井は早期から複数人と交友関係を築いてしまったが故に、まことに対して純粋な好意を持っていた自己を見失い欲望の対象、異性として本来のまこと自身を見ず固定的に捉え直してしまうなど、その埒外にいる他者との適切な関わり方を見失っていたと言えよう。

 藤井はまことが男だとわかった瞬間に拒絶反応を示した。これは単に同性愛を嫌悪する傾向(ホモフォビア)だと言えるだろうか。まことがりゅーじと付き合っていた時期があったり[106]、蒼井の友人をめぐる描写[107]を見る限り、学校全体としてはホモフォビアの傾向が強いとは必ずしも言えないし、またまことの性的な魅力はまことが男であるという情報を覆す場合もあることが作中示されている。ただ、鶴田(2009)が言うように、人間の性別を見ると言うことはその人間の辿ってきた人生を想定すると言うことでもあり、そこが覆されることが大きな衝撃となる[108]。加えて運動部に性愛と結びつかない異性排除傾向のある同性間の紐帯(ホモソーシャル)的な傾向があるのは多くの研究で示されている[109]ことであり、”女子生徒”であるまことに対しては好意を抱いたにもかかわらず、”男子生徒”であるまことに対して拒否感を抱いていたのはサッカー部という環境も影響していたことが考えられるのだが、一方で同じ運動部であるバスケ部では時間経過があるとはいえ、まことに対して拒否感どころかむしろ配慮・受容している描写が見られる[110]ことからも、あくまでも藤井をはじめとしたサッカー部の周囲で特に強いホモフォビアの傾向があるとして見た方が適当なように思われる。この点については、藤井がまことと再会した際にも特にまことが責めるような言動をしていないにもかかわらず自分から「……被害者ぶってんなよ[111]」と言っていたりするなど、暗に藤井自身が加害者とみなされてまこと以外の他者に何かしら藤井を”加害者”と見做した言及をされたことがあることを示唆していることからも、強く印象づけられる。もしくは藤井は本人の中の”女子生徒”観と”男子生徒”観に大きな齟齬がある故に、まことが”女子生徒”であれば明確に自分が「加害者」でありまことが「被害者」となるような状況を生み出してしまったことに対する呵責が言語化された結果とも言えそうである。

 なお、詳細は後述するが、まことはおそらく藤井という人物に告白されずかつされたとしても食い下がられなければ、そしてその場合でも女装への嫌悪感を持たれずその旨を他者に口外されなければ、3年間女子生徒として高校を通い続けた可能性すらある。逆に言えば物語を成立させるためには、藤井にどうしてもまことへの好意と告白を断られても食い下がる気質と嫌がっている相手の身体に触れるデリカシーのなさと女装への嫌悪感とまことが男である事実を他者に口外する口の軽さを全て持ってもらわなければならなかったのである。そういう意味で彼の”自分も被害者”発言は、作劇上あまり印象の良くない役回りを担わされたメタ的な意味合いを含意しているようにも読み取れなくもない。

 ところで、藤井はまことの腹筋(おそらくくびれのなさ)を見てまことが男だとわかったような描写がされているが、実際にそれだけで人の男女を判別できるのだろうか[112]。むしろ制服同士の接触が見られる場面があるのならまことが男であることを視覚的にではなく触覚的に認識してしまった、とする方が展開的に不自然ではないような気がするのだが、掲載媒体上の自粛という面もあるのだろうか(というよりも腹部の描写だけ作画が丁寧だということから作者は腹フェチではないかとTwitterで推測ツイートを述べたところ、エゴサされてしまい「バレタカ…[113]」という返信をいただいた)。

まことは「男の娘」か

 藤井以外にもまことに対して後ろ指を刺すような言動をしていた同級生がいたような描写が見受けられる割に、回想以外ではそういった人物は登場しない。そのため藤井だけが極端な人間として描写されてしまっている(特に女子(と見られる)生徒に関しては、まことに対して否定的な言動をしていた生徒の心情については現在の時間軸で一切描写されていないために不自然さすらうかがえてしまっている)。黒板の落書きや言動を見る限りは、当時の生徒たちはまことを異端視して排除する方向性に傾いていたと言えるのだが、「それなりにうまくやってるみたいだった[114]」とりゅーじが述べていたように、まことはその後も不登校などにはならず学校に行き続けているどころか、現在の時間軸においてはバスケ部などでは助っ人として参加している[115]など、「女装」と言われることはありつつも、学校では概ね受け入れられているように見てとれる。(黒板の描写や他の生徒の否定的な言動が「仮面ライダーBLACK SUN」でいう怪人の差別描写[116]のようにまことの心情として誇張して描かれたものでもない限りは、)あそこまで極端にまことを拒否してから再度受容するまでには、作中の時間軸に至るまでにまことの周囲の生徒の中でまことという存在に対して何らかの捉え直しがあったように思われる(特に女子生徒)が、その件について作中明言されていない。ここで考えられるのは、蒼井のようにまことを男の子の状態と女の子の状態を併せ持った[117]「男の娘」であると捉え直すことによって受け入れたのではないか、という可能性である。第1話から「男の娘」という言葉を蒼井が使っていることから、作品世界においてその言葉自体が存在しない訳ではない。とすると生徒たちも少年漫画や少女漫画のサブカルチャーから、そういったジャンルの概念を獲得している可能性が高いのだが、作中不自然なまでにその言葉が用いられることはなく、その言葉を用いたサブカルチャーについても一切触れられない。これはまことが身体的に男だと発覚した事件以降、そうした言葉が生徒たちにとって使いにくくなったということは考えられなくもないが、一方で男子生徒はまことに対してたびたび「女装」という言葉を投げかけ、加えて文化祭でりゅーじのクラスは女装メイド喫茶を行うなどしている。とすると生徒たちが「男の娘」という語を事件以降で用いていてもおかしくはないはずである。

 この時羽川は、まことについて「女装」ではなくあくまでも「女の子モード」として捉えつつ[118]も、その状態のまこととは「私とは話してくれない気がしてたのかも」と会話しづらく感じていた[119]ことを述べていた。つまり男女二分論の規範が強い『ぱいのこ』の舞台である学校において、(女子)生徒の多くは、まことに対して「異性装」をしているだけの完全な異性としてというよりかは、入学当初に見せていたような同性的な部分も併せ持った存在と見做されて受け入れられていた可能性が高い(まこと自身は事件以降自分が完全に「男」だとみなされているという開き直り的な言動をしていたが、女子生徒からのジェンダー認識はそう単純なものでもなかった)と言えるのではないだろうか。一般に、男子生徒よりも女子生徒の方が性的マイノリティなど非典型的なジェンダー表現などを抱えた人々に対しての受容度は高いと言える[120]ことも、この描写の裏付けとなりそうである。このことは事件直後以外でまことが女子生徒として行っていた言動に対して追加で糾弾を行おうとする女子生徒の姿は見られなかったことからもわかる。事件以降まことの存在について捉え直しを行いつつも、まこと自身が事件の影響で女子生徒に話しかけづらくなっていた結果、まことを「男の娘」だと再定義しつつも、早瀬に代表されるように事件の際にまことを庇えなかった負い目[121]もある中でそれを言い出せるほどまことと積極的な関わりを再構築できていた女子生徒がいなかった(まことも他生徒も話しかけづらかった)、というのが実情ではないだろうか。

まことは「男の子」か

 まことは「僕は…女の子になりたいのかな…[122]」といったようなさまざまな葛藤を経た末、「僕は僕のままでいたい[123]」、「男の子だけど女の子みたいなものが好き[124]」と両親に宣言する。つまりあくまでも”先輩はおとこのこ”という、タイトルで示されていつつも作中描写では不明瞭であった事実をここで回収していると取れよう。

 現代社会では「男の子」が可愛いものを好み可愛い格好をすることに対して、いまだに障壁が多いのは事実であり、作中においても(まことが「女の子」をやっていた方が可愛いものを好み可愛い格好をする点においては楽である[125]ことも含め)それは示されている。そんな現実がある中でも、まことは自分に対して正直でいるためにあえて困難な道をとることを決めたのである(個人的にはまことのことを「まことくん」と呼び、おそらく男子生徒として認識しつつも、文化祭の時にポニーテールを結ってくれていたり[126]、修学旅行の際に着物を着るよう勧めてくれたり[127]したクラスメイトである羽川の存在は、まことの決断に対してかなり大きな影響を与えたようにも思うのだが、羽川自身の価値観や心境を補足するような描写がそこまで多くなかったのが悔やまれる)。

 しかし、まことは事件の起きた学校での生活ではともかくとして、その外では「女の子」として認識されている場面が多く、まことが可愛いものを持つことが許されている(まことが母親を説得するときに用いた論理[128])のは他者がそう認識しているところが大きい。迷惑をかけないためであるなら、わざわざまことが自らを「男の子」と表明しない方が他者とのコミュニケーションが円滑に行えるという、本人の決意とは真逆の行動をとった方が望ましい皮肉な状況に陥ってしまっているのだ。特に「あのネーちゃんでけー![129]」と呼ばれていた場面でも、まことがまず”女子”として認識されていることが表れていると言えよう。そのため、今後高校を卒業して以降は、まことの決意とは裏腹にまことは再び「女の子」として扱われる場面が少なからず出てくるだろうと思われる。なぜならまことは藤井に告白された際の描写でも分かる通り、初対面あるいはあまり深く関わりのない相手に対してまことが自分から「男である」と述べるだけではまことが「男」であると直ちには信用されないのである(まことが自らの性別を蒼井に示すにあたって極端な行動をしていたのも、こういった過去の経験が影響しトラウマになっており、半ば「外傷の再演[130]」ともいうべき状態になっているとも推測できる)。”人に迷惑をかけない範囲で好きなようにする[131]”とき、「男の子」であることをわざわざ口外することの方が他人にとって迷惑になる可能性がある、ということなのだが、これについてまことは「男の子として生きたいのか女の子として生きたいのか」は「どっちでもない[132]」としつつも、どう対処するべきなのか、明確な結論は作品中で語られることはなかった。

 この、まことの性別をめぐる他者の認識について『放浪息子』における二鳥の「性別越境」描写を中心に考察した七瀬(2018)が引用していた東(2015)の”性(セクシャリティ)”のあり方に関するモデルに基づくのならば、性別が規定されるステージには大きく家庭や友人などの「ミクロ・レベル」、学校などの「メゾ・レベル」、そして社会全体の「マクロ・レベル」があり、そこで共有されている規範や道徳観から個人は自由でありえないという[133]。このモデルを踏まえると『JKおやじ!』のなでしこは全レベルにおいて”女子”であることを規定されることに成功している一方で、まことは「ミクロ・レベル」で規定されてしまった性別によって「メゾ・レベル」が書き換えられてしまった(本来は学校などの場合制度による性別の規定が大きいとされるが、『ぱいのこ』においては先述した通りその点がかなり不明確))一方で、「マクロ・レベル」としてはいまだに”女子”として認識され続けている。『ぱいのこ』という作品を通して読者の規範や道徳観が揺るがされることによって現実の「マクロ・レベル」は変わっていくと言えなくもないが、作中世界でまことはそこまで大きな出来事を起こしたわけではない。そのため本編終了後もレベルごとのまことに対する性別認識の齟齬は生じ続けると言わざるをえないだろう。

まことは”JK”になれたのか?

 そもそも『JKおやじ!』を見て分かる通り、まことが自分のことを男の子と女の子のどちらだと思っているか、あるいはどちらでも思っていないのかと、まことがJKとして生活できるかどうかについては実際のところあまり関連性がない。結果として藤井に告白されたことを契機にまことは男子生徒として生活することになったのであるが、逆に言えば藤井の告白をうまくいなせていれば、あるいは藤井がまことの事情を察することができたりしたのであれば、まことは3年間JKとして生活していたのではという可能性を物語として否定できない。まことは自分の選択としては「男の子」として生きることを最終的に選択したが、他者から”女子生徒”と思われていること自体は恋愛面以外においては特段否定的な言動をしていなかった。また、”女子生徒”としての生活自体も、”男子生徒”のそれと比べて期間・質共に十分な期間があったとは言い難く、どちらの性別で生きるかということについて十分な比較ができていたとは言えない。

 この時、まことの選択は本当に選択肢のある選択だったか、と言う点について考えたい。『ぱいのこ』本編では”女子生徒”であったまことが事件によって一度周囲の人間から”男”と認識されてしまった。”女の子”として生きるのであればそれを”女子生徒”であると主体的かつ積極的に覆さなければならなかったが、事件からの時間経過や今までまことがとってきた態度などを考えると本編中ではほぼ不可能に近く、実際していない。そのこともあり本編の時系列では、まことに対する周囲の扱いはまこと本人を含めて基本的に”男子生徒”なのである(逆に、学校から離れた大学進学や就職の段階では高校入学の際のように再び選択肢がある)。にもかかわらず、まことは事件後にも「僕は…女の子になりたいのかな…[134]」と悩んでいる場面があった。この悩みは積極的に現状を覆そうとするほど強いものではないが、よくよく考えればこの悩みの根本的な解消にあたっては入学当初のようなJKとしての生活をして、比較検討してみなければならないはずである(学校ではどこまで女子に寄せた容姿だろうと「女装した男子生徒」と認識されてしまう以上、そこには”男子生徒”としての生活経験しかない)が、それは”人に迷惑をかけない範囲で好きなようにする”というまことのポリシーもあってなのかなされなかった。だとすると、高校生活の中でまことが本当に生きていく性別を選択できる環境にあったとは言えず、本編中の発言も、本人の内心はともかくとしてほとんど現状を追認したにすぎないものであることが浮き彫りになる。では、どこで現状が発生したかを考えると、それは藤井の告白に対する「実は男[135]」という応答の時点であるとわかる。”身体的には”などの留保を入れずに返答してしまったことにより、その時点から藤井を発端として多くの人々にジェンダーそのものまで男性であると認識されたと言えよう(最もそういった留保をつけた返答であればこうならなかった根拠はないが)。その時点で最終的に「男の子」として生きることを選択する状況は水路づけされていたと言え、それは、現状のまことが悩んでいたことに対して今考えた上で出した選択が、実際には過去の自分の言動に未だにひきずられてしまっていることを示していたといえよう。

 さて、まことは母親に対して嘘をついていたように、決して嘘をつけない性格である、というわけではない。ではなぜ藤井の告白に対しての返事の応対で失敗したのか、という疑問が生じるが、その時から実際には「男の子」として生きたいという気持ちがあった、などの説はさておいて、単純に経験不足だったからである、という回答を提示したい。実はまことは高校入学当初、学校で”女子生徒”として見られていた段階では、それ以外の場面で女装をして外出した経験もなく、一切”女子”として見られた経験がない状態であったのだ。そのためにそもそも女子との会話で言葉に含意されている内容を捉えきることができず、要領を得ない返答をしてしまう場面がいくつか見られた[136]。『JKおやじ!』においてたこ八がファッション誌などをチェックしJKの流行を捉え[137]学校外でも積極的にJKの模倣を繰り返し、作品開始時点ではほぼ完璧にJKとして過ごせている[138]ことは対照的である。言い方を変えればまことには女子としての実生活経験[139]が不足していたということである。見た目によって他者からの認識が変わることはこれまで述べた通りだが、それによるトラブルの回避のためには自分自身も見た目によって自己の認識や行動を変えなければいけない部分がある訳だ。つまりまことは”女子”としての経験が足りなかったが故に”女子”としての応対に失敗し、”女子”ではないことが露呈したため、自らが”女子”であるとは定義できなくなり結果的に”女子”としては生きないことを選択した、という身も蓋もないような結論になるが、逆に言えば応対が成功していた場合、自らを”女子”であるとより強く認識できていた可能性も否定できないのだ。

 このことは単に”女子”を装っていたときの問題に留まらず、実はまことが決意した通り”男の子”として生きることを決めた時にも降りかかる問題である。事件後の作中において、まことが女子だと思われた相手に自ら男子であると認識の書き換えを行う場面は実は蒼井に対してしかなく、それ以外の認識の書き換えは事件によるものだけであり、基本的に外見、過去の情報を知っている、あるいは外部からの情報の上書きといった本人の意思によるところの少ない情報よってのみまことの性別は認識されており、初対面の相手が誤認する以前に円滑な自己主張ができている経験を積めているわけではないのだ。藤井のような誤認から逆上してしまう人間がいなくはないであろうことを考えると、作品終了後のまことにとって性別を誤認された際に(まこと本人として不本意な捉えられ方をされた際に)、要領を得た返答をするコミュニケーションスキルを身につけることは急務であるといえる。

まとめ

 『JKおやじ!』のなでしこを成立させているのは個別の配慮というよりも先進的な情報管理の体制と、その情報管理以上の詮索を行わない教師や生徒の風土にあったと思われる。また女子生徒としての生活の模倣を徹底することにより、男女問わず友人を作り生活することに成功している。家庭との姿の切り替えもウィッグやメイクを駆使することによって徹底していることや、不在であっても詮索されない立場・雰囲気により、致命的なトラブルの可能性を回避することにも成功している。

 一方、『ぱいのこ』のまことが学校から倉庫を借りることができているにも関わらず”女子生徒”としての生活を送れていなかった原因には、学校で『JKおやじ!』におけるような情報管理が徹底されていないことと、「パッシング」が失敗した後のフォローがなかったり、他人に対して詮索し噂話を流布したりするのが好きな教師や生徒の風土という点が問題として描かれていた。初期は家庭との姿の切り替えを徹底していなかったことも「パッシング」の失敗につながってしまい、また家庭から不在になる別居のような選択肢を取れていないことも、トラブルにつながっている節が見られた。 

 男の娘的キャラクターを通して、両作品共に描いているのは、学校という場における「印象の強固さ」と「情報管理の徹底の重要性」、「模倣の重要性」と、家庭という場における「切替の重要性」「不在の許容」だったと言えよう(心情面においては「ありのままが受け入れられる困難さ」というものも該当するだろうが、『JKおやじ!』のそれは男の娘的な描写とはそこまで関係がないため割愛した)。

特に「印象の強固さ」と「模倣の重要性」はなでしことまことが共に「美少女」として描かれていた場面に象徴的であり、なでしこはJKとしてミスコンで優勝する[140]一方同じ格好のたこ八では不審者扱いをされる、短髪では制服を着てもりゅーじから「まこと」として認識されてしまう一方でウィッグをつければ初見では「女の子」と見られる場面[141]に象徴されるように、ある意味ルッキズムを西倉の整理した定義で言う「美の不均衡論[142]」を肯定する立場の描写が目立った。さらにウィッグをつけても、まことはなでしこのようにJKとしての生活に戻れているわけではなかったが、これ自体の原因は様々考えられることは先述したとおりである。なでしこにはもも子と言う女子の友人がいる[143]が、まことは羽川から「女の子モード」と認識されつつも話しかけることを敬遠されていた。ここには「美少女」と「男」という情報を与えられた時の双方への人々の対応や反応の違いが凝縮されていると言ってよく、その情報を超えて親友となることは難しいと言うことが窺える[144]

 加えて、両作品共に、『放浪息子』などではかなり大きく取り扱われていた声や顔、体格といった「性別越境」に対する(特に第二次性徴に起因する)身体上の困難について直接的な描写はされていなかった。これについては筆者の前稿でも若干触れたが、実際に美貌を持ったルックスのアイコンを全面に押し出さなければ、そもそもどのような問題提起を作品内で行ったとしてもそもそも作品が認知されないと言うジレンマが生じている可能性はある。しかし、容姿をはじめとした元来生物学的な宿命とされていた問題が後景化し、むしろ人間関係や情報が自らの(他者から見た)性別を決定することの方が主要な問題となりつつあるという認識の方が、若い世代の読者にとっては主要な問題になっており、そちらに主眼を置くことの方がより”リアル”なのかもしれない。土井隆義が「キャラ化する/される子どもたち: 排除型社会における新たな人間像」を刊行してから13年が経つが、いまだに若者が「キャラ」の演じ分けを行なっていることを示している研究は多い[145]。この観点から見た時、「性別」を集団、あるいはそのうちにおけるキャラの比喩として、二作品についてキャラの使い分け自体を肯定的に取るか、キャラの一貫性を誠実として重きを置くか、という作品主題がある、と言えなくもなさそうである。

 今回は二作品を俯瞰したが、どちらも着替えや裸体などの生々しい描写が少ない分、性別という実態のない情報で人との付き合い方を変える人々が生々しく描かれた快作であったと言って良いだろう。これについてはそもそも「男の娘」というジャンルがそう言った側面を扱っているからという点が大きいのもあるが、令和4年の作品として現実では多様性への配慮が叫ばれつつも結局は学校における二分法の強固さが続いていることを『JKおやじ!』では暗に、『ぱいのこ』では直接的に描いていた。しかし、それが強固すぎるが故に『ぱいのこ』においてその認識の転換が起きる一連の流れはやや強引といえるものにならざるを得なくなっている。しかし、裏を返せば、一見共通の経験として語られることの多い学校生活というものが、制度や雰囲気といった根本部分においてですら全国的にコンセンサスを取れているわけではないので、最大公約数な書き方をすることがかなり難しい題材であることを明らかにしてくれてもいる。その上で、心情描写にフォーカスすることで、幅広い読者から共感を得ることに成功している点では、描写の取捨選択を高いレベルで実現しているといって良いのではないだろうか。逆に『JKおやじ!』は、最大公約数ではないものの部分部分の描写自体は必ずしも学校現場で実現しないわけではないために、ギャグ作品でありつつも一定のリアリティを持たせ、読者との距離感を縮めることに成功している点は、高く評価できるだろう。

 最後に、近年の「男の娘」をめぐっては、ブリジットの件[146]などもあり、ジャンルとしてセンシティブになりつつある面は否定できない。実際のところキャラとしての役割ではなく個人としてみた時、トランスジェンダーと男の娘の境目は強く主張できるほど明確なものではなく[147]、今回のレビューにおいても若干重ね合わせている部分がある。しかし、逆に言えば学校などにおいてリアルに創作上の「男の娘」が存在しうる余地が広がったということでもあり、創作上でも「チェーホフの銃[148]」としてでなくても「男の娘」を出すいとまが広がっている、という好意的な解釈も可能ではないだろうか。もちろん、「男の娘」をメインキャラに据えた作品は現在でもジャンプ+で掲載中の『マリッジトキシン』や2022年秋アニメとしても放映された『4人はそれぞれウソをつく』、何故か英語版のWikipedia記事の方が先にできている『あまちんは自称♂』、”の~すとらいく”の妊娠する男の娘物エロゲ10周年作品『女装創世記』など枚挙にいとまがない。”女装が熱い大学[149]”と評された筑波大学の学生として、今後も「男の娘」を題材とした作品、「男の娘」それ自体が増えること、そして「男の娘」が過ごしやすい社会を願ってやまない。

今回のレビュー対象とした文献

・加藤みのり(2016)『JKおやじ!①』小学館

・加藤みのり(2018)『JKおやじ!②』小学館

・加藤みのり(2020)『JKおやじ!③』小学館

・加藤みのり(2022)『JKおやじ!④』小学館

・ぽむ(2021)『先輩はおとこのこ{1}』一迅社

・ぽむ(2022a)『先輩はおとこのこ{2}』一迅社

・ぽむ(2022b)『先輩はおとこのこ{3}』一迅社

・ぽむ(2022c)『先輩はおとこのこ{4}』一迅社

・ぽむ「先輩はおとこのこ|漫画無料・試し読み|LINE マンガ」(https://manga.line.me/product/periodic?id=Z0000602)2022年12月19日閲覧。

余談

 「なでしこ」という名前も「まこと」という名前も男の娘的女装男子キャラに名付けられる名前として少なくはない。前者であれば冒頭に紹介した『しゅごキャラ!』の藤咲なでしこが該当し、後者であれば『まこヘキ』の真宮まことが該当する。おそらく偶然の一致だが、「なでしこ」は共に徹底的に女子であると認識されており、「まこと」は作品開始時点で他の主要キャラには男であることが既に周知されている。

 このように名前と性別認識の問題において男の娘的女装男子キャラが”女性的な偽名”と”中性的な本名”どちらを用いるかというのは作品によって異なる(もちろん『カイチュー!』の不動権三郎のように、本名が男性的でも容姿が女性的である(ギャップ萌えの要素として用いている)ために周囲からの扱いはおおむね女子に準じている、という場合もないわけではない)が、そもそも我々読者や作中の登場人物がどのような名前を女性的・男性的・中性的と認識するのかという問題は、男の娘を題材としているわけではない作品、あるいは現実でもつきまとう問題ではある。明治安田生命の名付けランキングを全て暗記でもしていない限りは明確な基準などというものは存在せず、おそらく個々の人生で出会ってきた人間の名前などに依存するものではあるのだが、何かしら統一された名前と性別の間の関係性があるように錯覚してしまい、容姿以上に固定的なものとしてみなされていると言えよう。

 この時、”中性的な本名”を用いていると、まことが藤井に対して「実は男」と表明した場面に象徴されるように、”女性的な偽名”を使用しているキャラよりもキャラクター本人が自分のアイデンティティを女装時・非女装時を境とせず一貫的に捉えている描写が多い(ためにトラブルや葛藤を引き起こす側面がある)ように感じており、それは創作にとどまらず実際の異性装者やトランスジェンダーの事例においても同様の傾向があるように思われるが、確証や詳細な分析を行えていないため余談にとどめさせていただく。

  1.   ””オトコの娘”情報&コンテンツ満載!新世紀オトコの娘マガジン”(「わぁい! | 一迅社WEB」(https://www.ichijinsha.co.jp/waai/)2022年12月19日閲覧)。2010年4月に創刊し、2014年2月に廃刊となった。

  2.   ”2010年10月に創刊された、わぁい!(一迅社)に続くオトコの娘専門誌。旧型スクール水着やニーソックス、スポブラ&パンツの下着セットなど、変わった付録で注目を集め、季刊ペースで刊行されてきた”(「オトコの娘専門誌・おと☆娘が休刊、単行本は今後も刊行 - コミックナタリー」(https://natalie.mu/comic/news/91595))。2013年に休刊。

  3.   ふみふみこ他(2015)『ユリイカ 詩と批評 特集=男の娘-”かわいい”ボクたちの現在』青土社

  4.   川本直(2014)『「男の娘」たち』河出書房新社

  5.   なお、『不可ぼく』作中世界の現実においては、あくまで「男の娘」という語彙はさまざまな背景で女性の容姿や服装をしている身体的男性の当事者が選択して用いている語彙であり、「男の娘」の定義に当てはまる存在はいない、といったような描き方がなされている。

  6.   本稿においても女子高生のことをJKと省略する場合がある。

  7.   取り組みの実際については薮田直子(2013)「在日外国人教育の課題と可能性──「本名を呼び名のる実践」の応用をめぐって──」『教育社会学研究』vol.92,197-218.などに詳しい。

  8.   「都立高願書の性別欄が廃止へ 全国で最後、来年度入試からようやく 「選択肢広がる」と歓迎の声:東京新聞 TOKYO Web」(https://www.tokyo-np.co.jp/article/208210)2022年12月19日閲覧。

  9.   「柳川市個人情報保護条例」(https://www.city.yanagawa.fukuoka.jp/reiki_int/reiki_honbun/r203RG00000947.html)2022年12月18日閲覧.

  10.   「柳川市立小中学校個人情報管理要綱」(https://www.city.yanagawa.fukuoka.jp/reiki_int/reiki_honbun/r203RG00000973.html)2022年12月18日閲覧.

  11.   文部科学省(2019)「小学校,中学校,高等学校及び特別支援学校等における児童生徒の学習評価及び指導要録の改善等について(通知)〔別紙3〕高等学校及び特別支援学校高等部の指導要録に記載する事項等」(https://www.mext.go.jp/b_menu/hakusho/nc/attach/1415199.htm)2022年12月18日閲覧.

  12.   加藤(2018)pp.79-82。

  13.   部屋に風呂があるために、単純に他の生徒についても大浴場を使用しないという選択肢が与えられていた可能性はありそうである。しかし、その選択に対して九郎やもも子が怪訝な様子を見せていないあたり、同調圧力などの少ない環境であることを見てとることができよう(加藤(2018)p.26)。

  14.   「「次にくるマンガ大賞」受賞作が世界6ヵ国で配信、『先輩はおとこのこ』英語タイトルは…? インディーズ作品初の快挙 | ORICON NEWS」(https://www.oricon.co.jp/news/2218947/full/)2022年12月19日閲覧.

  15.   第12話「過去」(ぽむ(2022a)p.74)。

  16.   同上。

  17.   第14話「さよなら」(ぽむ(2022a)p.107)。

  18.   第1話「手紙」(ぽむ(2021)pp.5-6)。

  19.   第2話「後輩」(ぽむ(2021)p.34)。

  20.   番外編①(ぽむ(2022a)p.159)など。

  21.   第5話「蒼井さん」(ぽむ(2021)p.82)。

  22.   第64話「友達」。

  23.   「岐阜県立高の制服、性別問わず選択制に 県教委、校則に明記要請:一面:中日新聞(CHUNICHI Web)(Wayback Machineによるアーカイブ)」(https://web.archive.org/web/20200203133807/https://www.chunichi.co.jp/article/front/list/CK2020020302000069.html)2022年12月19日閲覧。

  24.   「”ジェンダーレス制服”導入広がる 学校の「男女分け」に苦しむ生徒も | NHK」(https://www.nhk.or.jp/shutoken/wr/20211119gg.html)2022年12月19日閲覧.

  25.   キャラの識別表現ではなく作中世界においても実際に金髪であるらしい

  26.   第35話「そういうヤツ」(ぽむ(2022c)p.138)のように、性的マイノリティに関する描写自体は存在しているが、まことやりゅーじ以外の生徒や教員からそういった発言などをした描写は見られなかった。

  27.   第5話「蒼井さん」(ぽむ(2021)p.81)。

  28.   加藤(2018)p.15。

  29.   鹿間久美子(2010)『性の健康教育と養護教諭の役割』考古堂,pp.212-214.

  30.   静岡県(2021)「ふじのくにレインボーガイドブック」には県職員として”身近に相談できる人がいない”子供への対応として、”先生自らが、多様な性を生きる一人の大人として、子どもに寄り添う。必要があれば、校外の当事者団体などと連絡をとり授業に活かすなど、多様な性のロールモデルの姿を子どもたちに伝える”ことが対応例として示されている(p.22)。

  31.   第28話「クジラ」(ぽむ(2022c)p.28)。

  32.   同上。

  33.   同上。

  34.   第35話「そういうヤツ」(ぽむ(2022c)p.144)。

  35.   第5話「蒼井さん」(ぽむ(2021)p.81)。

  36.   第13話「満足」(ぽむ(2022a)p.85-86)、第14話「さよなら」(ぽむ(2022a)p.103-104)。

  37.   第31話「選択」(ぽむ(2022c)pp.65-80)において父親は、まことが学校での生活自体には悩みを抱えていないような認識であくまで進路をどうするかについて応対している。また、りゅーじの起こした問題に関しては親が同席しているため、まことのそれは学校から特段問題と認識されていなかった可能性すら浮上する。その場合、盗撮された写真をめぐってのトラブルは対応するものの盗撮そのものやその遠因である事件、事件に関連した学校側のまことのメンタル面や学校生活に対してケアを一切入れないという対応基準の不明瞭さが余計に浮き彫りになる。

  38.   第16話「王子様とお姫様」(ぽむ(2022a)p.137-158.)など。

  39.   第34話「文化祭」(ぽむ(2022c)pp.113-132)など。

  40.   第65話「修学旅行1日目」など。

  41.   加藤(2016)pp.43-47。

  42.   加藤(2020)pp.18-21。

  43.   例えば体育祭は加藤(2020)pp.59-63においても描写されている。

  44.   第65話「修学旅行1日目」。

  45.   登下校以外の着替えも提供された着替え場所で行っているのか否かについて描写が一切ないため、不明な点が多い。

  46.   土肥いつき(2020)「トランスジェンダーの困難と学校におけるジェンダー」『日本健康相談活動学会誌』vol.15(1),pp.15-19.

  47.   本稿におけるカミングアウトは大坪(2021)の定義を参照し、”自己が性的マイノリティであることを「(言語・振る舞い問わず)なんらかの手段で他者に伝達しようという企図をもって」なされる行為”とする(大坪真利子(2021)「性的マイノリティのカミングアウトの根拠としての「不可視」論再考」『WASEDA RILAS JOURNAL』vol.8,p.44.)。

  48.   第66話「修学旅行2日目」。

  49.   実際の着物レンタルサービスである「京華」でも、”手ぶらで構わない”としつつも、着てくる下着類についてのアドバイスが述べられている(「よくある質問」(https://www.kyobana.jp/cont4/main.html)2022年12月19日閲覧)。

  50.   作中の季節は冬と推測されるので、流石に何かしらのインナーやタイツを着込んでいたとは解釈できそうだが、まことがそれらを着込んでいたかは不明(制服の場面において早瀬と羽川はタイツを履いていないことが確認できるが、制服姿のまことが写っている場面はなかった)(第66話「修学旅行2日目」)。

  51.   加藤(2016)p.116など。

  52.   加藤(2016)p.97など。

  53.   加藤(2018)p.63など。

  54.   加藤(2018)p.76など。

  55.   加藤(2018)p.70。

  56.   加藤(2016)p.14。

  57.   加藤(2016)p.16。

  58.   加藤(2022)pp.63-67。

  59.   なでしこはともかく、九郎に関しては成績の悪さが度々描写されている。しかし奨学金などについて言及する場面も見られないため、生活に不自由しているわけではなさそうである。

  60.   加藤(2022)p.44。

  61.   加藤(2018)p.98など。

  62.   加藤(2018)p.101など。

  63.   加藤(2016)p.7など。

  64.   加藤(2018)p.43。

  65.   加藤(2016)p.11。

  66.   加藤(2016)p.18など。

  67.   加藤(2022)pp.63-67。

  68.   第12話「過去」(ぽむ(2022a)pp.59-62)。

  69.   第12話「過去」(ぽむ(2022a)pp.63-65)。

  70.   第70話「気持ち悪い」。

  71.   同上。

  72.   同上。

  73.   第71話「父」。

  74.   ”トラウマになる圧倒的な出来事(外傷的出来事)を経験した後に始まる、日常生活に支障をきたす強く不快な反応”。そのうちの一つとして回避反応(”トラウマを思い出させる物事(活動、状況、人物)を執拗に避けるようにな”ること)がある。(John W. Barnhill「心的外傷後ストレス障害PTSD) - 10. 心の健康問題 - MSDマニュアル家庭版」(https://www.msdmanuals.com/ja-jp/%E3%83%9B%E3%83%BC%E3%83%A0/10-%E5%BF%83%E3%81%AE%E5%81%A5%E5%BA%B7%E5%95%8F%E9%A1%8C/%E4%B8%8D%E5%AE%89%E7%97%87%E3%81%A8%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%AC%E3%82%B9%E9%96%A2%E9%80%A3%E9%9A%9C%E5%AE%B3/%E5%BF%83%E7%9A%84%E5%A4%96%E5%82%B7%E5%BE%8C%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%AC%E3%82%B9%E9%9A%9C%E5%AE%B3-%EF%BC%88ptsd%EF%BC%89)2022年12月19日閲覧)。

  75.   第76話「帰宅」。

  76.   同上。

  77.   同上。

  78.   完全に寛解したわけでもないのか、「また一緒にお買い物しましょう」という会話を交わしつつも、まことは学ラン姿でウィッグを付けずに登校することを続けている。(第80話「今はまだ」。)

  79.   第77話「日々」。

  80.   『放浪息子』に関する性別越境の事例研究は七瀬しのぶ(2018)「「性別越境」のマンガ的表現―『放浪息子』における「越境者」と「観測者」―」『フォーラム人文学』vol.15に詳しい。七瀬論文に基づく『ぱいのこ』解釈については後ほど検討する。

  81.   粉山カタ(2021)『不可解なぼくのすべてを 5』GOT。

  82.   粉山カタ(2020)『不可解なぼくのすべてを 4』GOT。

  83.   同上。

  84.   服部昇大(2021)『邦画プレゼン女子高生 邦キチ! 映子さん Season5』ホーム社

  85.   加藤(2020)p.137など。

  86.   第10話「憧れ」(ぽむ(2022a)p.26)。

  87.   第2話「後輩」(ぽむ(2021)p.34)。

  88.   第1話「手紙」(ぽむ(2021)p.6)など。

  89.   加藤(2016)p.29.など。

  90.   加藤(2016)p.14.

  91.   加藤(2020)pp.118-121.

  92.   加藤(2018)pp.80-81.

  93.   第1話「手紙」、第2話「後輩」(ぽむ(2021)pp.19-21)。

  94.   第35話「そういうヤツ」(ぽむ(2022c)p.143)。

  95.   第35話「そういうヤツ」(ぽむ(2022c)p.144)。

  96.   第14話「さよなら」(ぽむ(2022a)pp.112-114)。

  97.   第36話「ごまかせない」(ぽむ(2022c)p.155)。

  98.   第13話「満足」(ぽむ(2022a)p.85-86)など。

  99.   第64話「友達」。

  100.   第37話「相談」(ぽむ(2022c)p.169)。

  101.   第64話「友達」。

  102.   同上。

  103.   同上。

  104.   第87話「似合う」。

  105.   この時藤井の表情が途中赤面していることから一目惚れとしてのまことへの好意は残っていると考えられなくもないが、前後含め藤井自身の心情描写がないため、推測にとどまる(本作において赤面描写は恋愛感情と無関係に使用されている場面がないわけではないが、詳細な検討は以降の課題としたい)。

  106.   第45話「夢中」など。

  107.   第30話「進路」(ぽむ(2022c)p.58)。

  108.   鶴田幸恵(2009)『性同一性障害エスノグラフィ―性現象の社会学』ハーベスト社,pp.104-105.

  109.   三上純(2020)「運動部活動におけるホモソーシャリティの形成:「セクシュアリティ・ジョーク」と「恋愛指導」に着目して」『スポーツとジェンダー研究』vol.18,pp.20-34.など。

  110.   第27話「ちゃんと」(ぽむ(2022c)pp.10-12)。

  111.   第87話「似合う」。

  112.   第2話の蒼井が「ONAKA!」と言っていた(ぽむ(2021)p.22)あたり、現実での識別の可否以上に本作の作者が男女の差異として腹部周辺を重要視しているきらいは少なからずある。

  113.   https://twitter.com/pomujoynet1/status/1603200601969418241

  114.   第36話「ごまかせない」(ぽむ(2022c)p.157)。

  115.   第25話「逃げたい」(ぽむ(2022b)pp.144-146)。

  116.   本誌に掲載している別稿「怪人への差別描写は「不自然」か:仮面ライダーBLACK SUNについての一考察」を参照されたい。 ※追記(2024/05/07) 『Celaborate 47』収録。必要でしたらこちらも再掲予定です。

  117.   ”つまり男バージョンの先輩と女バージョンの先輩を楽しめるってことですか!?!?”(第2話「後輩」(ぽむ(2021)p.23))。

  118.   第17話「変化」(ぽむ(2022b)p.10)。

  119.   同上。

  120.   佐々木掌子(2018)「中学校における「性の多様性」授業の教育効果」『教育心理学研究』vol.66(4),pp313-326.

  121.   第66話「修学旅行2日目」。

  122.   第22話「疑惑」(ぽむ(2022b)p.99)。

  123.   第76話「帰宅」。

  124.   同上。

  125.   第10話「憧れ」(ぽむ(2022a)p.26)。

  126.   第34話「文化祭」(ぽむ(2022c)pp.134-135)。

  127.   第66話「修学旅行2日目」。

  128.   第76話「帰宅」。

  129.   同上。

  130.   PTSDの侵入症状においては”実際にその出来事が起こっているように再体験するフラッシュバックが起こる人もい”る(John W. Barnhill「心的外傷後ストレス障害PTSD) - 10. 心の健康問題 - MSDマニュアル家庭版」)。

  131.   第27話「ちゃんと」(ぽむ(2022c)pp.11)。

  132.   第76話「帰宅」。

  133.   同上,p.21.

  134.   第22話「疑惑」(ぽむ(2022b)p.99)。

  135.   第64話「友達」。

  136.   同上。

  137.   加藤(2016)p.12など。

  138.   加藤(2016)p.11。

  139.   性同一性障害の治療の一環として”「望みの性」で実際に生活してみること”を総称することがある(鶴田(2009)前掲p.8)。この経験での「望みの性」への移行度合いなどが身体的な治療の実施に際して勘案される。

  140.   加藤(2020)pp.34-37。

  141.   第36話「ごまかせない」(ぽむ(2022c)p.155)。

  142.   西倉実季(2021)「「ルッキズム」概念の検討 : 外見にもとづく差別」『和歌山大学教育学部紀要』vol.71,pp.147-154.

  143.   加藤(2022)p.25。

  144.   「ぱいのこ」第66話で早瀬が「よければもう一度友達になりませんか!?」といっていることからも示唆的である。

  145.   秋山華穂・松浦均(2019)「”キャラ”を介したコミュニケーションが集団内の人間関係に及ぼす影響」『三重大学教育学部紀要』vol.70,pp.187-197.など。

  146.   ギルティギアシリーズにおいて従来「男の娘」キャラとして扱われてきたブリジットが、新作において「トランスジェンダーの女性」キャラとして扱われるようになり物議を醸した(「『GUILTY GEAR -STRIVE-』ブリジットの”性自認”について、開発者が公式回答。「彼女が勇気を出して、自分自身の気持ちに嘘偽りなく選択した」 - AUTOMATON」(https://automaton-media.com/articles/newsjp/20220914-219152/))

  147.   『「男の娘」たち』においても、「男の娘とは、生まれた時の性別が男性だった”トランスジェンダー”のことである」という定義がされている(川本(2014)前掲,p.2)。

  148.   ストーリー上に意味なく不自然で無用なものを出してはいけない、とする創作上の技法。

  149.   川本(2014)前掲,p154。

*1:2005年前後に当サークルで流行っていたらしい挨拶。「マリみて」の影響らしい

*2:定義の話をすると無限地獄に落ちそうなのでウィキペディアンにお任せします

*3:放浪息子』も同じ枠でしたね

*4:現在のレビュー班で流行しているロバート・マッキー『ストーリー』で用いられている語に依るならば「契機事件」でしょうか

*5:と言いつつ『ぱいのこ』が中心になっている