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京アニのFAZZ『劇場版ヴァイオレット・エヴァーガーデン』レビュー

京アニFAZZ『劇場版ヴァイオレット・エヴァーガーデン』 レビュー」

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【引用元:

ヴァイオレット・エヴァーガーデン

公式twitter  https://twitter.com/Violet_Letter
 

 本作は「ヴァイオレット・エヴァーガーデン」の総締めとして京都アニメーションにて制作された。
 この映画を端的に評価するとすれば、「とにもかくにも登場人物たちに甘い選択肢を取らせてくれる、パワー型感動作品」といえる。これについては少々⾧くなるため最後に述べるとして、演出面等々の評価を先んじて述べておくとする。
※本レビューにはネタバレが含まれます。

演出
 非常に良い。作画由来の美麗な世界観・キャラクターの表情がメリハリのある SE・BGMによってより強調されている。構成要素としては非常に素晴らしい。が、反面暗い部分があまりにも暗すぎるため、あまりに見にくく、“劇場版”つまりは映画館で放映するという条件に合っていない等々粗が目立つ(本来はブルーレイでの修正でやること)。また、演出が良い反面、後述する構成等々がよろしくないため安易なお涙頂戴もののような印象を与える。「絵と音で泣かせる映画」と言われてしまうとぐうの音も出ない。

作画
 昨今の京都アニメーションのクオリティは安定しており、眼福であった。特に今作は自然物を描くことがシナリオ上役割が大きく、それを描き切ったことは手放しに称賛したい。個人的には雨の描き方の巧みさ・力強さ故に「悲しい+雨」という典型にも新鮮さが大なり小なりあったものと思う。ただ、淡さのあるヴァイオレットの絵が個人的には好きだったのでもっと増やして欲しいとも思った。

声優陣の演技
 やはり最終章ということもあり、声優に対する要求も高まってくるのは当然であるが、主人公から端役にいたるまで演出・作画に負けない演技を拝見することができた。特にヴァイオレットとギルベルト、ホッジンズの三人は“静と動”をキッチリさせることが極めて重要となるため、前者二名は「悲哀」そしてホッジンズは「怒り」を要所に叩き込む必要があった。
 さらに言えば、作品柄においては“やるせなさ”を強く描く観点上、うじうじとため込んだ状態から感情を爆発させるという同じ感情の違う表現が欲されたが、各キャストはしっかりとその任を果たしたのである。ユリス役には水橋かおり氏と、配役も良いものであった。ただ、本作において特に賞賛したい人物が他にいる。それは、ディートフリート・ブーゲンビリア(CV:木内秀信)である。この人物、非常に厄介な面があるのだ。
 というのも、始めの 3 人がうじうじとしながらも“静と動”を持っていた反面、彼だけは“静”の状態のみを背負わされたキャラクターである。
 初登場は冷徹な軍人であり、基本スタンスは物静かな人物だ。ヴァイオレットとの再会後についても、自身の負い目やギルベルトへの想いがある故、彼に依存するヴァイオレットに強い態度をだせない、あるいはしおらしさがでてしまう。どの方向を向いても“動”から遠ざかってしまう人間だ。したがって、ギルベルトとの再会時には色々な感情があったものの元来の性格と状況によって声を荒げることすら出来なかったわけであるが、これを木内氏の絶妙な演技によって表現し切ることに成功している。
 彼については脚本等でも述べることに加えて、今回から「ヴァイオレット・エヴァーガーデン」における筆者の推しキャラとなったため、バンバン売り込む所存である。

 

構成・シナリオ
 問題はここである。『劇場版ヴァイオレット・エヴァーガーデン』、とにもかくにも素材が良い反面、活かせていなさ加減が目に余る。描写不足も多い。
 良い点については、手紙と電話の対比を描いたことなどがある。

複数のストーリーラインを扱えていない
 「劇場版ヴァイオレット・エヴァーガーデン」はヴァイオレットたちを描く本筋とは別に、以前に登場したアンの孫デイジーがヴァイオレットの旅路を紐解こうとする、スタート兼締めを担当するスト―リーが描かれる。加えて、ヴァイオレットの依頼主であるユリスも一応ではあるが別口に話が進行していく面がある。
 第一に、デイジーの話はヴァイオレットの足跡を辿っていくという基本コンセプトがある。しかし、それがやたらと少ない。映画内で彼女のストーリーは完結するから仕方ないともいえるが、最初から映画で締めるつもりであるならばテレビ放送→映画を股にかけさせれば良いはずだ。
例えば、

テレビ放送
私はある人を追っている。彼女の名前はそう、「ヴァイオレット・エヴァーガーデン
→ヴァイオレットのスト―リーの節々の入るデイジーの旅→
劇場版
デイジーの旅の理由
→博物館→島
でも良かったのではないだろうか。

 本作品ではデイジーの訪れる地点・描写の少なさのせいで小休止のような役割が果たせず、強引な挿入が目立つ。また、デイジーの物語自体も描写不足により登場する人物の想いが分かりにくい(母の「子を思う気持ちの描写」がないのは致命的か)。こういった点から、あってもなくても誰も気にしない内容であった。
 次に、ユリスのエピソードである。ネット上では「ユリスで泣いたけど別にやっても良かった」等の感想が見受けられる。しかし、違う、そうじゃない。
 ユリスのストーリーが別で良かったと思うのは、ユリスの話が自己完結してしまったからである。作中、ヴァイオレットにはユリスのもとに向かうか、否か(ギルベルトを優先するか)の選択(可能かは別の話)が発生する。実際のところは電話を用いため、ユリスの案件が勝手に解決してしまうわけで、ヴァイオレットはギルベルトに専念可能となった。これが問題なのだ。
 このシーンはユリスというキャラクターの持つ、作中での屈指の盛り上げ場である。しかし、肝心の主人公ヴァイオレットが蚊帳の外だ。別々のストーリーラインが各々完結することは珍しくも何ともないことだが、それは物語同士が絡み合い干渉しあうという前提が存在してこそで、間違っても完全独立してはいけない。ことユリスにいたってはヴァイオレットに色々な想いを吐露したのにも反して、最後にヴァイオレットはどうしているのか、を問う以外にヴァイオレットの存在を感じさせない。つまり、ヴァイオレットは居てもいなくても問題がないのである。本来は、ここにヴァイオレット自身からのアプローチあるいは、指切りを含めたヴァイオレットとの関わり合いの回想を一瞬入れ、ヴァイオレットへ激励するといった流れが加えられることで同時進行のストーリーをキッチリ嚙み合わせる必要がある。それがないために共に完結に向かうのではなく、「各自」終わるだけなのだ。ヴァイオレットが主人公であるのにもかかわらず、だ。仮にも「ボーイミーツガール」なのだから、互いの出会いが互いの変化に寄与しなければならない。
 言ってしまえば、ユリスには「描写」が、ヴァイオレットには「変化」がない。これが「別々でも良かった」と思う原因である(あるいは、ユリスがアンのエピソードの二番煎じの域を完全に脱することが出来ていないのも理由の一つか)。

キャラクターの直面する壁がない
 本作においてとりわけ感じたのは、登場人物に対して辛い選択肢を取らせない点である。ここではキャラクター別にその点を批判したい。
※「親離れ・子離れ」といった要素を意識して欲しい。

ヴァイオレット・エヴァーガーデン
問題点:せっかく用意された二つの選択肢の片方が勝手に解決
 前述したようにヴァイオレットには(できるかは問わず)二つの選択肢が用意された。「ユリス」をとるか、「ギルベルト」をとるかである。したがって、ヴァイオレットは苦渋の決断を迫られたわけだ。仕事もギルベルトも大切に出来るヴァイオレットには辛いハズだが、本作ではユリスをギルベルトからの逃避先としてしか用いていない。ただ、これについては周囲の大人(該当者 1 名)が強く出なかった点も大きい。両取りをするならばもっと良いやり方(後述)があったはずだ。
 とりわけこの作品の締めには、価値判断の依存脱却、つまりは「親離れ」をすることで一人の人間としてのギルベルトを愛“する”(恋をするニュアンスに近い)ことが肝となるわけだが障害もないために、なんとなくなあなあで終わった印象が強い。成長のわかる言動を肝心のギルベルトに対しては終止発揮できていないのは、成長物語の終幕として如何なものか。

 

クラウディア・ホッジンズ
問題点:「親」を意識しておきながらヴァイオレットに終止甘すぎる
 ホッジンズは劇中でギルベルトに対して声を荒げた。子安氏の演技の迫力に肌を震わせたものだが、問題は怒りを露にする対象、内容である。要はギルベルト一人に「馬鹿野郎」のみでは意味がないのだ。

 実はこのシーン、振り返ってみると、
相思相愛の状態の女の子の告白→男はうじうじ→女の子は泣いて逃げる
→友人「馬鹿野郎!」である。
 このことからも分かるが、彼にはヴァイオレットとギルベルトに発破をかける役割がある。しかし、主人公ヴァイオレットにはとことん甘いのである。
 ここにおいて彼に求められるのは、選択を「迫る」行為だ。ヴァイオレットに「嵐だから行くのは無理だ」などを言うことではない。「過保護」と称される男に、娘のような存在に対して酷な選択をさせる、という辛い決断(つまりは"子離れ”)が必要であると言っている。
 苦しいことだからこそ、成⾧し乗り越える必要と価値が出てくる。大切だからこそ、逃げ出そうとするヴァイオレット、そしてそのヴァイオレットから逃げようとするギルベルトを一喝しなければならない。本作ではそういった辛い役回りを何故かとらせない。そして、とらせないからこそヴァイオレットの選択肢は自然消滅してしまうという流れに落ち着いた。要するにヴァイオレットの意志が事態を動かす契機がないのである。重ねて述べるが、「ヴァイオレット・エヴァーガーデン」の主人公はヴァイオレットである。ギルベルトだけに怒りを露にしても本作は『劇場版ギルベルト・ブーゲンビリア』ではないのだ。
 個人的には、荒ぶるホッジンズ演じる子安氏が輝くシーンで魅せて、後日談において「息子でも娘でも自分は保たない」フラグを男女の双子が産まれることで回収してくれることを望んでいた。
 ここからは逆に重荷を背負った人物。

○ディートフリート・ブーゲンビリア
特徴:自己完結型人生ハードモード
 彼には辛いことが続いた。弟への負い目、弟の死と向き合うこと、自身の罪と向き合うこと、死んだと思われた弟との再会(調査も担当)、大切に想う(精神がボロボロの)弟を非難し発破をかけること、これだけある。そして、その結果として弟に己の人生を生きさせ、自身は反発していた「家」を継ぐことを決心する。制作上ではもしかしたらヴァイオレットにホッジンズ、ギルベルトにディートフリートという対比をとったのかもしれないが、ご覧のあり様だ。ちなみにディートフリートの言葉は最後の一押しであり、本来ギルベルトを変える言葉としては位置付けられない。ギルベルトに必要なのは、ヴァイオレットへの罪の意識はギルベルトが勝手に背負っているだけのもので当の本人は気にしてなどいない、と気付くことである。それを踏まえると、「愛している」以外の話題から離れないヴァイオレットも含めて肝心な要素が劇中一切解決していないのである。やっていることが主張の銃撃戦でもあったりなかったり。本当に向き合っているのか怪しい限りだ。
 もしもディートフリートにヴァイオレットに対して「お前は結局、弟の道具で“あり”続けるのだな……。少しは自分の言葉で話してみろ」とでも言わせてみれば、覚悟ガチガチの鉄心ヴァイオレットが見られたのかもしれない。とにもかくにも筆者個人はディートフリートこそが主人公ではないかと感じた。『劇場版ディートフリート・ブーゲンビリア

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【引用元:『劇場版ヴァイオレット・エヴァーガーデン』公式サイト】

 

「指切り」の使いどころの無理矢理感
 今作では「指切り」が象徴的に使われた。そして、指切りをする二人を最後に物語は完結する。しかし、だ。指切りとは約束、つまりは事前に行うものである。したがって、指切りのみを見せるならば相応に手順を要する。
 そこで重要な転換点となるのがヴァイオレットとギルベルトが月下で向き合うシーンだ。正直なところ、面会させてどうする。ヴァイオレットが海に飛び込むのは良いが、後の再会を狙うならば、海中のヴァイオレット&崖の上のギルベルトを最終ポジションとすべきであろう。肉体的接触は、やはり言葉での接触を上回る位置付けにある。したがって、扉越しや視覚でのみの接触を最後まで貫き、エピローグにて指切りする二人を映すほうが演出としてはカタルシスに溢れていたと思う。つまりは、海中のヴァイオレット&崖の上のギルベルトが言葉にてお互いの想いと約束を伝え合い、約束の内容は「今度はちゃんと指切りをして約束し合う」といったものとする。ただそれだけでラストシーンの意味は違ってくる。

 こういった風に徹頭徹尾貫く場所がおかしいのが本作である。とにもかくにも、最後までギルベルトとは面会させないというスタンスを守り切らないのには疑問を呈するという話だ。
 

 余談 ホッジンズはどうすれば良かったのか(簡単なプロットの提示)
――ユリス or ギルベルト
「ユリス様の元へ向かいます」
「ダメだ!」
 驚くヴァイオレット。
「今ギルベルトの奴を放っておいたら、君もアイツも二度と向き合えなくなるぞ」
「しかし、ユリス様は危篤状態です。私が今行かなければ。それに少佐は……」
ホッジンズがヴァイオレットの肩に両手を強めに置く。驚くヴァイオレット
「ヴァイオレットちゃん、君にとってどっちが大切なんだい? 依頼人とギルベルト、君
はいったいどう選びたい?」
「私は……私は……!」
 ヴァイオレットうつむく。
―ヴァイオレットの人生の回想―
 ヴァイオレット顔を上げる。
「どちらも大切です! 依頼も、少佐も、どちらも私にとってかけがえのないものです!」
「なら、どっちも放しちゃだめだ」
優しくヴァイオレットの両手を掴むホッジンズ。
「君にはその両手があるんだから、一度掴んだなら絶対に手放しちゃあいけない!」
「ではどうすれば……」
「生憎うちにはヴァイオレットちゃんの他にも優秀な社員がいてね」
 電報にてホッジンズは部下に指令を出す。
 以後は電話でのユリスとリュカの対話、ユリスは手紙をリュカに残すことを伝える。
アイリスは電報にてユリスの言葉を中継、ヴァイオレットは手紙を書き上げる。
 ユリスは最後にヴァイオレットへ励ましの言葉を送る。
 ギルベルト戦へ。

 こうすれば、手紙と電話が対比も崩さず両立するのではないか?

 

余談の余談、極めて脇道
エンドロールを見たとき……。
    ユリス父   遠藤大智
 ヴァ、ヴァルゼライド閣下!
 ギルベルトとは、つまりはそういうことだったのか……。ガンマレイに撃たれたような衝撃であった。
というわけで、『劇場版クリストファー・ヴァルゼライド』の公開、首を⾧くして待っています。審判者よ、天霆の火に下るべし。アドラー万歳。総統閣下に栄光あれ!
 

※引用した全ての画像の著作権は、「京都アニメーション」及び「ヴァイオレット・エヴァーガーデン製作委員会」に帰属します。

公式リンク
『劇場版ヴァイオレット・エヴァーガーデン』公式サイト
http://violet-evergarden.jp/
ヴァイオレット・エヴァーガーデン」公式サイト
http://tv.violet-evergarden.jp/

 

総統閣下ってどんな人?
http://www.light.gr.jp/light/products/vendetta_cs/cha/cha05.html
解説
https://w.atwiki.jp/vermili/pages/128.html